2007にっこり韓国旅行 ご案内

 

     釜 山 の 週 間 天 気 予 報

 

 

 

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日本コリア協会・愛媛は、日韓併合(1010年〜1945年)強行から百年となる2010年に『植民地朝鮮と愛媛の人々』を出版し日本の近現代史を愛媛の地から見つめなおしてみようと考えています。にっこり韓国歴史旅行は昨年に続いてこの企画に関連する場所を中心に韓国南部を訪れます。

 

おもな訪問先を簡単にご案内しておきます。

 

@「釜山映画村」

 2001年に釜山市は、映画の撮影などを行う国内最大の撮影スタジオを建設しました。チャン・ドンゴン主演の「台風」や日本の映画「危ない刑事」、日本でも人気が高かったウォンビンの「ブラザーフット」や「甘い人生」「マラソン」「親切なクムジャ」など多くの映画がここで撮影されました。スタジオ見学は予約が必要。

電話番号 : 051-731-6528

 

A「釜山民主公園」

(以下web記事から引用)「いまからさかのぼること20数年前、その当時韓国は、朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領による独裁政権のまっただ中にあり、労働や学生による民主化要求がなされていました。そんな中、1979年8月、「YT貿易」という会社での労働紛争に警察が介入、野党である「新民党」の党舎に籠城する労働者、野党議員を連行、殴打するという事件が発生、そして大統領は「新民党」の総裁である金泳三(キム・ヨンサム)の議員剥奪を行うまでに至り、独裁政治に対する野党と国民の不満が爆発しました。

その結果、10月16日、金泳三氏の政治的本拠地である釜山で5,000人あまりの学生がデモを決行、市民も加勢し大規模なデモに発展し、派出所、新聞社、放送局なども破壊されました。

18、19日には馬山(マサン)、昌原(チャンオン)にもデモが拡大。これに対し、政府は18日に釜山地域に「非常命令」を宣布し1,058名を連行、66名を軍事裁判処置としました。

そのような圧力に関わらず、デモは広がり、全国に波及するのは時間の問題とされた矢先の26日、朴正熙大統領が暗殺されました。

デモは沈静しますが、このデモが独裁体制の終末を早めたとも言われています。そして、この「釜馬事態」(釜山、馬山を中心に行ったことからこのように呼ばれています)の20周年を記念して建てられたのが「民主公園」なのです。」

 

B旧助羅(クジョラ)

 

 旧助羅は現在は巨済市(コジェシ)に属します。閑麗海上国立公園のなかにある漁村です。

明治初期の日本の朝鮮半島に対する関心は「征韓論」の西郷隆盛、江華島条約を結ばせた大久保利通のような政府高官だけのように思われがちですがそうではありませんでした。 濫獲による水産資源の枯渇に悩まされていた瀬戸内海の漁民たちは、日本政府の韓国への支配力拡張に合わせて、対馬から隣国韓国の沿岸へと漁場を拡大していきました。

魚島の漁民たちは1891(明治24)年頃、政府の援助なしで韓国慶尚南道巨済島の小さな半島・旧助羅に進出し、何百人もの漁民がカタクチイワシ漁に従事しました。使われた舟は小さな帆掛け舟で、風がないときは四人ずつ交代で櫓をこぎました。

この年の年表を見ると「済州島民、日本漁船の済州島禁漁を要求し騒動」とか「日本漁船数十隻、済州島に上陸し島民と衝突」などという記事が出ています。一方、「釜山に日本人の手によって魚市場開設」ともあります。日本人漁民がどんどん韓国沿岸に進出していたのです。

しかし、旧助羅漁民からすれば、ある日突然外国人が乗った櫓漕ぎ舟がやってきて海岸近くで大きな網(地曳網を改良した権現網)を広げてカタクチイワシを大量に水揚げし、それを煮るために浜に上がって小屋を建てようとするのですから民衆レベルの「黒船到来」でした。現地の漁民は当然これに抗議して上陸を拒否しますが、夜中に上陸して小屋をたててしまったそうです。日本人漁夫たちはフンドシ一つで礼節を尊ぶ韓国人の村を闊歩したり女性をからかったり犬を蹴飛ばしたりして顰蹙を買いましたが、のちには以後こういうことはしないと誓約書をだして「友人として交際」ができるようになったそうです。

乗組員の多くは青少年でした。12歳の少年が乗っていることもありました。  

彼らは3月に魚島からこの地に到来し船上の生活を続け、漁期が終わる11月に帰国するという生活でした。これを通漁といいます。1902(明治35)年には旧助羅出漁中の魚島漁民がコレラにかかり13人が死亡するという痛ましい事件もありました。魚島漁民の旧助羅で通漁生活は終戦の年まで続きました。

最初は対立していた韓国人も、日本の武力を背景にした絶対的な支配が確立されていったこともあって日本人との対立も減少し、かえって日本人の漁業に従事して現金収入を得、また日本人のイリコ作りの技法を学び自分のものにしてゆきました。旧助羅では今でもイリコが生産されており品質の良さで韓国全土に知れ渡っているそうです。

 

C三千浦・八浦(サムチョンポ・パルポ)

 

魚島漁民が帆掛け舟で韓国へ乗り出した年から20年後のことになりますが、1911(明治44)年3月、旧・城辺町内泊から内泊の資産家・山本桃吉(51歳)の引率のもと12戸の漁家が、同年12月にさらに12戸が三千浦八浦に移住しました。のちに隣村香村里にも6戸が移住し1921(大正10)年には33戸に増加した。魚島漁民は3月から11月を韓国沿岸で暮らし3月には帰国するという通漁形式でしたが、三千浦の場合は一家全員が移住しそこを根拠地にして漁業を営むというやり方で、植民地に民を植えたのです。この村を移住漁村と呼びます。

当時政府や県から朝鮮出漁希望者に対して造船費用や食費などの補助が出されていました。移住漁村は国策事業だったわけです。各町村には補助金の受け皿になる信用組合が続々結成され、その上部団体である愛媛県遠海出漁聯合会が県庁内に置かれました。

この聯合会が朝鮮各地を調査し漁業基地になりうる場所、つまり移住漁村を選定しました。愛媛県が運営した韓国内の移住漁村は鎮海湾の漆川島、三千浦の八浦(後に愛南町内泊漁民が移住、巾着網でサバ漁)、鎮海の東川里、巨済島の旧助羅(上島町魚島漁民が漁場とした 権現網でイワシ漁)、莞島郡内(後に三瓶町二木生漁民が農業開拓移民団として移住)、莞島のカマクミ(後に三崎町漁民が漁業開拓移民団として移住)6箇所でした。

内泊の漁民はこの一つである八浦へ移住したのですが、帆掛け舟を漕いで玄界灘を渡り現地へ到着してみると、聯合会によって買収された荒蕪地(砂浜)にヒノキ作り一戸建ての建物が20戸準備されていたそうです。

通漁の魚島漁民と違って、八浦の日本人漁民は故郷の文化も新しい村にそのまま移しました。海の神を崇拝する若宮神社と浄土真宗の本願寺が建立され、お盆のときは内泊の伝統行事である獅子舞がそのまま再現された愛媛村(あるいは山本村)と通称された。

アメリカから日本へ導入されてまもない巾着網でサバをとるのがここでの漁業の中心でした。大掛かりな巾着網のための資金は愛媛村の全漁民が組合員になり1株200円を分配する形式で全戸が均等に出資したそうです。

山本桃吉氏の指導もあって、儲けたお金で田畑や宅地を購入し、後期には愛媛村も農業が中心になったようです。

朝鮮人の小作を使った農業ですが、朝鮮人との関係は悪くなかったそうです。終戦の年の10月に全員無事宇和島港へ帰着したのですが、8月から10月までのあいだも特に大きな事件はなかったということです。

莞島で終戦を迎えた三瓶町の古老の話では、右翼の青年たちが殴りこんできたことがあったが、それまで一緒に青年団活動をしていた朝鮮人青年たちが守ってくれたそうです。

 

D昆明(コンミョン)

 

(以下、ほとんど青木敦子氏「ある日本人の朝鮮体験」(東洋文化研究第8号)からの引用です)

内泊の12戸の漁民たちが韓国に移住した年からまた約20年後の1930年、八幡浜出身の上甲米太郎(28歳)が泗川市三千浦と晋州の間にある昆明で治安維持法違反容疑で逮捕されました。そのとき上甲米太郎は泗川郡昆明公立普通学校校長でした。

西宇和郡千丈村(現在八幡浜市)の上甲家が農業経営で失敗破産、米太郎の両親は朝鮮に渡って慶尚南道のある町の郵便所長の職を得ました。米太郎は大洲中学校を卒業すると両親のいる朝鮮に渡り教員養成所に入学、ここを卒業して慶尚南道の公立普通学校に勤務するようになりました。公立普通学校というのは朝鮮人の子弟だけが学ぶ学校です。

1924年(22歳)頃から社会的弱者や貧困の問題に関心を持つようになり河上肇の著作や『資本論』にも触れ社会主義に接近するようになりました。雑誌『新興教育』にも投稿するようになり、当局の監視が強まりました。1930年ついに逮捕され京城の西大門刑務所に拘留されました。103212月京城高等法院での第二審で懲役2年執行猶予4年の判決が下り保釈されましたが教師の資格は剥奪されたため、保険の外交員や新聞記者をしながら妻子と暮らしました。

 

1941年釧路の太平洋炭鉱の朝鮮人人夫掛として一家で朝鮮をはなれ北海道に移り住みました。監視つきのタコ部屋で朝鮮人と同居したそうです。

その後北海道から九州の三井三池炭鉱に配置換になり敗戦を大牟田で迎えました。戦後レッドパージで失職、大牟田で紙芝居屋をし「大牟田子どもを守る会」を結成、全日自労運動の活動家となりました。全日自労大牟田合唱団は荒木栄を産みはぐくんだ合唱団です。

196664歳で東京に移り専門学校の朝鮮語の教師などをしながら、日本と朝鮮の友好運動にかかわりました。1987(昭和62)年86歳で死去。

娘さん上甲まち子さんは現在「青年劇場」団友。

「我が母の歌」は三池で活動していた荒木栄が上甲米太郎の還暦祝いに献呈した作品だといわれています。

 

梶村秀樹は上甲や平壌赤色労組事件の米川たちは「その行動のため朝鮮人と共に獄につながれ、そのなかで朝鮮人から主体的に学ぶという姿勢を確立していった。その意味で、かれらこそ今日まで意義を持ちうる唯一の日朝連帯の思想の先駆とみることができる」評価しています。

今回始めて昆明にはいりますが、昆明公立普通学校のあとを確認できればと思います。

 

E海印寺

 

(韓国観光公社の説明から)

海印寺(ヘーインサ)、通度寺(トンドサ)、松広寺(ソングァンサ)は韓国三大寺院と呼ばれ、なかでも海印寺は仏教の経典を8万枚の板に刻んだ八万大蔵経(パルマンデージャンギョン)が保管されていることで有名です。
 八万大蔵経は、蒙古の侵略に対して国難克服を祈願する意味で、高麗23(1236)から16年という長い歳月をかけて作り上げられたものです。版木には、南海と巨済地方でとれたホオノキを数年間海水に漬けた後、陰干ししたものが使われています。横68p、縦24.5p、厚さ3pの大きさの板の両端に木をはめて版木の均衡を取り、漆を塗って腐食を防いでいます。経版の数は81,340枚で、冊数は6,791冊。これらは温度と湿度が一定に保てるという朝鮮初期の建築物・八万大蔵経板殿に保存されており、国宝32号と、ユネスコ世界文化遺産に指定されています。
 海印寺は新羅・哀荘王3(802)に順應と理貞の二人の僧によって創建された寺院です。「海印」とは華厳経の海印三昧に始まるもので、お釈迦様の正しい悟りの世界を指す言葉、汚れていない清浄無垢なわれわれの本心を表す言葉です。朝鮮時代(1392-1910)、江華島から八万大蔵経を移した後、法宝寺院とも呼ばれています。海印寺には八万大蔵経(国宝32)と蔵経板殿(国宝52)をはじめ、15点の宝物と200点余りの私宝など、数多くの文化財と古跡があります。