2007年7月26日
水産試験場100年史
老馬新聞

中予水産試験場で『愛媛県水産試験場100年史』を貸してもらった。以下この『百年史』の朝鮮関係の記載のメモである。

第1章 沿革

  1. 1899(明治32)年農商務省が「府県水産試験場及び水産講習所規程」を発布
  2. 1900(明治33)年県庁内に水産試験場設置
  3. 1906(明治39)年県庁内に水産試験場があるのは適当でないとして宇和島へ移転
  4. その後さまざま経緯があったが現在は宇和島市下波に設置されている。
  5. 試験船の誕生は1918(大正7)年。「当時沿岸の漁業は徐々に発達の域にあったが、遠洋、沖合域での漁業は少なく南宇和郡におけるカツオ漁業と瀬戸内海域から朝鮮海域へ出漁したイワシ漁業があるに過ぎなかった。しかし沿岸域では不漁が続いており、その対策として新たな漁場の開発、漁具漁法の改良を図り漁業者に奨励すると共に業船員の養成、沿海(ママ)出漁船の監督指導、漁業基本調査の充実等を理由に試験船が建造されることになった。建造に当っては・・・建造条件として各種漁労の試験調査、遠海出漁者の監督、漁船員の養成に使用でき、カツオ釣り漁船並に外洋の高波の中で航海に堪え、作業性を有する構造とした。」この試験船が『愛水丸』。
  6. 『愛水丸』が「当時の漁業の発展に対応しきれず、遠洋での漁業調査や遠海出漁船の監督指導ができなくなり」1923(大正12)年『伊予丸』が建造された。
第2章 本場の業務概要
  1. 1902(明治35)年〜03年、マグロ、カジキ、カツオ延縄漁業試験。マグロ、カジキ、カツオは沿岸の漁獲が主で、大敷網と曳き網以外の漁業は見られなかった。浮延縄漁業による沖合い域での漁業を奨励した。
  2. 1903(明治36)年水産試験場の巾着網漁具を漁業者に貸与し共同で実用化試験を実施
  3. 1905(明治38)年〜08年、イワシ沖取り網漁業試験。イワシは地曳網、船曳網、棒受網により沿岸部で漁獲していた。沖合いでのイワシ漁業を奨励するため、漁獲効率のよい「巾着網」による試験操業を実施した。
  4. 1905(明治38)年、南宇和、西宇和で31統 が巾着網に新規着業。
  5. 1911(明治44)年〜12年、タイ巾着網試験。燧灘で盛んに行われていたタイ縛網は、網の規模大きく、多くの人手を要し、多額の費用を必要とするため、巾着網に改めることにより経費を節減する目的であった(香川県のホームページの「お魚ランド香川」によればタイ縛網は網部分が1880メートル、船10隻、漁夫65〜70人)。巾着網は縛網に比べて、漁船数は5隻減、人員は20名余減らすことができた。
  6. 1925(大正14)年〜1927(昭和2)年朝鮮海苔移植試験。朝鮮全羅南道より朝鮮形簾(す)に付着した幼芽を東予地方の適地二ヶ所に移植し、生育の状態を調査した。しかし、どの結果も成績不良であった。移植地の海況の相違や輸送に長時間かかかったことなどが原因と思われた。なお、輸送は試験船伊予丸で行い、約45時間を要した。
  7. 講習講話実地指導。1910(明治43)年、遠洋、沿岸漁業などについて、東宇和郡狩江村ほか3ヶ所、参加者95名。1912(大正1)年遠洋漁業について、北宇和郡九島村ほか4ヶ所、参加者172人。1913(大正2)年、遠洋漁業について、宇摩郡二名村ほか5ヶ所、参加者274名。
資料編
9 愛媛県議会における水産試験場についての議論の概要(ひらがな表記にした)
  1. 1900(明治33)年文野昇二県議(進歩)が県の勧業政策の立ち遅れを批判。西田書記官の答弁「水産は分かって漁労、製造、及び養殖の三要件とす。しかして漁労は従来の方針にて近海即ち近県の海に出て出漁することは矢張り奨励する者なり、また韓海出漁は最も大に奨励を加へ、当年より造船費の補助をなし居れるが明年度は猶其数を増す考なり、又韓海を探海することは出漁を奨励する上に於て最も必要なるを以て之を出漁組合の方にて遣らしむること可なりと考へ、其運(はこび)になし居り、云々」
  2. 1904(明治37)年村上紋四郎県議が「本県の水産試験事業は当局者其人と得ざるため成績挙がらず、殊に試験の結果を敏速に報告せざるは甚だ宜しからず、而して朝鮮漁業の奨励に関する経費を前年度より減じたるが如きは対極を知らざるものと謂ふべし」と批判。
  3. 1908(明治41)年事務官補斎藤基良の答弁。「又巾着網の如き種々試験の結果有益なる事を示し今や宇和海に於ては盛んに使用しつつあり、鮪流し網の如き未だ全く試験を結了せざれども、当業者は進んで沖合に出て漁獲するの頗る有利なる事を自覚するに至れり」