2007年7月21日

金秀姫先生
「日帝時代に慶尚南道三千浦に移住した日本人漁民について

_愛媛県南宇和郡西海町内泊浦の漁民を中心に_」

韓国金泉大学金秀姫先生の論文を私が翻訳したものです。金秀姫先生のご了解を得てここに掲載させてもらいます。


目次

序言
1 三千浦の日本人移住漁村の建設過程
(1)  愛媛県の漁業奨励策と内泊漁民の三千浦移住経緯
(2)  三千浦での愛媛村建設過程

2 三千浦愛媛村の社会構造と漁業経営

 (1)愛媛県西海町内泊漁民達の漁業と漁民生活
(2)愛媛村の社会

3 イワシ巾着網漁と移住漁民

(1)日本人移住漁村のサバ巾着網漁
(2)愛媛村のサバ巾着網漁
結  語
付  記



日帝時代に慶尚南道三千浦に移住した日本人漁民について

_愛媛県南宇和郡西海町内泊浦の漁民を中心に_

金秀姫


(翻訳 尾上守)

 

序  言


  本研究は日帝時代に日本人漁民が朝鮮に建設した移住漁村の形成過程を調べ、その過程が朝鮮の漁業の発達とどのような関係があるのかを分析したものである。

その一つの例として愛媛県南宇和郡西海村内泊の漁民達が慶尚南道三千浦に作り上げた日本人移住漁村を選んだ。この地を選んだ理由は、この移住漁村が、植民地政策によって作られた村であると同時に、朝鮮の漁場を巾着網漁法の基地に育て上げる上で先駆的役割を果たしたからである。この村は、出身地愛媛県の名を採って愛媛村と呼ばれるようになった。

世界的に見るとき、県の補助金に頼るしかなかった零細な漁民達が、多くの資本力と技術が必要な巾着網漁法を展開したことは特記すべきことである。したがってこの研究においてはまず経済的自立が微弱な漁民が朝鮮へ移住した背景を社会的経済的理由から調べようと思う。その次に内泊漁民がどのようにして巾着網漁法を始めたのか、その理由を分析してみようと思う。

西海町内泊集落は愛媛県南西部、四国本土から豊後水道に突出した半島の内湾にある。漁村の前には暖流性の黒潮が流れリアス式海岸に位置しているため伝統的に漁業立地条件に恵まれておりイワシ船曳網、アジ網、サバ延縄漁が発達したところだ。しかし農地は山を開墾して造成した階段式の畑が大部分であるため農業条件はかなり不利であった。主要作物はムギ、キビ、ヒエ、トウキビ、ソバなど痩せた土地でもよく育つ雑穀類が主として生産されていた。ここは漁業比重が大変大きい漁村であった。住民の大部分は半農半漁であった。

しかし、現在は漁業に従事するものがほとんどなく農地は放棄されたままで明確な産業はない。ただ漁村周辺は海中公園に指定され観光資源として利用されているのみである。現在戸口は106戸、224人で居住者の大部分は老人層である。この地は都市とは遠く隔たった僻地であり交通が不便で老齢化現象が顕著であり漁村としての機能は喪失している。

 

1 三千浦の日本人移住漁村の建設過程


(1)  愛媛県の漁業奨励策と内泊漁民の三千浦移住経緯

日本人漁民は1883(明治16)年日朝間に締結された「通漁規則」によって朝鮮近海漁場に進出した。日本人漁民の朝鮮近海漁場への進出は日本国内の水産物需要増加による漁場不足を打開し漁業生産性を高めるためであったといわれているが、日本政府の強力な保護と奨励を受けて発展した。当時の日本政府の漁業政策は日本国家の帝国主義政策と深い関係があった。

愛媛県は愛媛県出身漁民の朝鮮近海進出を奨励するために朝鮮近海出漁漁者に対して食費、漁船建造費を補助した。「遠海漁業奨励補助規則」(県令第29号)を作って1900年からは朝鮮漁業と移住とを奨励した。この規程によって愛媛県内には町村別に23の信用組合が創設された。西海町内泊にも「西外海村遠海出漁組合」が設立され1906年から1911年まで総額520円が支給された。

 またこの23信用組合を統率する「遠海出漁団体聯合会」も設立されたのであるが、「聯合会」は移住漁業者に奨励金を交付し直接移住漁村を監督管理する業務を担当し事務所は愛媛県庁内に置いた。朝鮮に数ヶ所の土地を確保し愛媛県漁民の漁業活動と移住漁村建設を支援した。

「聯合会」が運営した漁村は鎮海湾の漆川島、三千浦の八浦、鎮海の東川里、巨済島の旧助羅、莞島郡内、莞島のカマクミ6箇所であった。この中で三千浦八浦の愛媛村は愛媛県を代表する移住漁村として知られている。
(尾上注 八浦には城辺町内泊漁民が移住、、旧助羅には越智郡魚島漁民が通漁、莞島郡内には二木生村二及漁民が農業開拓移民、莞島カマクミには西宇和郡三崎村漁民が漁業開拓移民している) 

内泊漁民等が朝鮮漁業に関心を持つきっかけとなったのは同村出身の漁民が広島県イワシ製造業者に雇用されて鎮海湾に行ったときそこにサバの魚群が大量に回遊しているのを目撃した後だという。その時期内泊では朝鮮漁業移住団が結成され、1905年当時で漁船(帆掛け舟)7隻、漁民56名が朝鮮漁場へ向かって出漁した。三千浦に愛媛村を建設した内泊出身の山本桃吉の頌徳碑文には山本が巨済島に出漁して漁業に従事していたが利益がないので三千浦移住を決心したとある。ここで内泊漁民が三千浦へ移住するにいたる経過を移住漁村の建設者であった山本桃吉(注)を中心に見ることにする。

(注)山本は1861年内泊に生まれた。187515歳の時にはイワシ網漁法に従事し、35歳まで珊瑚網、サバ釣り漁業に従事した。25歳から50歳までは休閑期を利用して薪販売をした。51歳になった年に朝鮮に移住した。

 

 山本は村内においては山林200町歩と5反歩の農地、薪を大阪などへ運搬販売する数隻の船を持つ資本家だ。彼は村内において厚い尊敬と人望を集めており日露戦争の時期(4344歳)には村の全般的な行政を担当する区長職を引き受けていた。彼は国家に対して献身的な努力をする愛国者であった。(注)

(注)たとえば日露戦争中出征兵士の辛苦を考え床の上に寝たことがなく戦争が終わるときまで出征軍人48名の家族に対して薪と履物を無償で提供したという。

 

 彼が村民を指導して朝鮮移住を決心するようになった原因を考えてみると、彼は大阪、堺などで薪を運送販売している間に朝鮮の情勢を正確に把握していたと考える。朝鮮が日本の植民地となり日本人漁民が朝鮮漁場で活発に漁業活動を展開しており日本政府はこれらの漁業活動を支援するためにさまざまな漁業実験をしていることなどなど。また、その上アメリカから導入された新しい漁具であるサバ巾着網漁法が日本各地で操業中であり朝鮮漁場においても実験操業中だということなどである。

 山本は植民地での日本人移住漁村建設の意味を理解しており狭小な内泊漁場に替わって広くて新しい朝鮮漁場で村民と共に巾着網に関わることを願っていたと思われる。加えて朝鮮漁場から帰国した同郷の漁民たちのみやげ話が説得力を持っていたことが内泊の村民達に移住漁村建設に同調させる力となったのであろうと推測する。


 

(2)   三千浦での愛媛村建設過程

 三千浦は閑麗海上公園の中心地でありその景観がとび抜けて美しいところだ。沖には新樹島、勒島、朝陽島などたくさんの島々が浮かんでおり、風や波を避けるにもよい天然の港湾となっている。また大都市晋州と近く貨物が集散する要衝地帯でもある。このような地形的な条件によって朝鮮人による沿岸漁業が発達していた。日帝時代には晋州まで通ずる鉄道と水産会社が設立され漁獲物を処理した。

(注)この海域で朝鮮人漁民は釣り、鯛延縄漁、日本人は手繰網、打瀬網など小規模漁業をした。

 
現在も沿近海漁業の中心基地となり数多くの漁船と貨物船が停泊している。

三千浦の戸口は1907年には朝鮮人770戸(3800名)、日本人48戸(161名)であったが1911年には日本人が96戸(426名)に増加した。これらの日本人は漁業、農業、雑貨商、料理飲食店など大部分はサービス業、漁業に従事していたがこの中に移民12戸も含まれていた。この漁民がおそらく19113月に内泊浦から移住した第1陣の漁民ではないかと考えられる。

 愛媛村がつくられた三千浦八浦は現在の西錦洞の東側と東錦洞との間にある川(尾上注 現在の「錦興川」、移住した日本人は「洗濯川」と呼んでいた)を中心とした地域だ。

 日本人部落が作られたところは団体山という岡のすぐ下の海岸だ。現在この場所は東錦洞6,7統地域であるプと呼んでいた。<写真 省略・三千浦文化院所有>を見ると岡のすぐ下にある瓦屋根の大きい建物が「トンチャン」(「統営倉庫」の略「統営」の韓国語読み)と呼ばれる日本人の建てた倉庫で、その横に朝鮮人の部落が海岸に沿って長く形成されている。今はこの場所は埋め立てられて家の前に海岸道路が広げられているが、この当時では砂浜であったため家の前まで波が打ち上げてきたということだ。日本人達が帰国した後朝鮮人たちは瓦をスレートに、日本式の内部も改造して使っている。

 
団体山は小さな岡で朝鮮人たちが山神祭を営んだ場所だ。日本人はこの場所を占有してふもとに家を建て岡の上に神社と山本桃吉の記念碑を建てた。そしてこの岡を団体山と呼んだ。現在は団体山の上の日本人の神社と記念碑は撤去され、朝鮮人が祭祀を営んだ数百年になる大きな木も枯死してなくなった。代わりにその場所に横10cm、縦50cmの「堂山之位」ど刻まれた碑石がありそのまわりは家が密集している。

 
トンチャンの付近が漁村建設地に選定されたのは、山本が1911(明治44)年三千浦付近を視察したあとだという。山本が初めて朝鮮移住計画を立て県に報告すると県では三千浦沿海にあるある小さな島を移住地として決めてくれた。しかし、山本は自分で直接行って見てみない限り決定することはできないと力説して三千浦周辺を調査した。この調査の途中三千浦八浦の砂浜にサバが飛び跳ねているのを見てこの地を移住地として定めたという。建物は1戸当たり建物7割、土地3割の補助を受けて立てられた(土地は地主のいない荒蕪地であるためほとんど費用がかからなかった)。このようにして1911(明治44)年3月12戸、同年1212日にさらに12戸が移住した。以後八浦の隣村香村里にも6戸が移住し1921(大正10)年には33戸に増加した。

 

2 三千浦愛媛村の社会構造と漁業経営

 (1)愛媛県西海町内泊漁民達の漁業と漁民生活

 内泊に関する最も古い記録は1667年徳川幕府の巡検使が監察した報告書『大成郡録』であり、これによると西海町には5個の部落があり全部で22戸があった。このとき内泊には8戸があったという。この後ここにイワシ漁業と廻船業が活発となるにつれて人口が増加し170020戸、1883141戸、1892156戸、1905190戸が住んでいた。内泊浦の戸数は19世紀後半から増加し明治時代には現在の約2倍以上の人々が居住していた。

 またこの記録によると、1706西海町内に五つの浦とイワシ元網5帖があったが操業するものは内泊浦のイワシ網一統しかなかった。その後50年が過ぎた1757年には17統に増加し内泊にはイワシ網2統、アジ網1統 があった。明治時代に入って西海町には60の漁場と網主18人に増えたのだが内泊には地網、太鼓網と呼ばれるものなどいわし網2帖しかなかった。

このように約200年の間に人口が20倍以上増加したのだがイワシ網主は2隻で固定されていたことが分かる。これはこの場所のイワシ網が藩の重要な財源であったため藩はこれを徹底的に統制し新しいイワシ網の許可与えなかったからである。イワシ網を許可するときは荒蕪地を開墾し新浦を開拓したもので一部落に20戸以上居住する地域にだけ許可された。

 日本におけるイワシ漁業は17世紀に商業的農業が発達するにつれて食用だけでなく棉作や稲作の肥料など農村用肥料として利用されつつ急速に発展した。内泊浦のイワシ漁業は集落の開拓とほぼ同時に始まりイワシ漁業は重要な生計手段となった。この時期イワシ網漁業は地曳網、八手網、棒受網、イワシ刺網、 大敷網などがあったが代表的なものは、地曳網、船曳網、八手網である。

 船曳網は瀬戸内海地域と愛媛県豊後水道、伊予沿岸などで盛んだった。
豊後水道内に位置している内泊ではイワシ船曳網を面高(おもだか)網と呼んだ。

規模は網船2隻(真網1隻、逆網1隻)、手舟2~3隻、漁夫3040名で、操業方法は手舟に載っている責任者(網廻)の信号に従い2隻の網船(真網1隻、逆網1隻)が左右に分かれて網を入れ魚群を取り巻きながら陸地に向かって櫓を漕いで行く。網を引き揚げるときは陸地の岸壁に綱で縛るとか、錨を打つとかして網を絞った。またイワシ魚群が網から逃げ出すことを防ぐために棒を入れて網の沖合い部分へ追い出した。

 このようなイワシ網は各浦の庄屋、組頭など管理にゆだねられ世襲制で利用された。これらの人々は村役人をかねて耕作地をもった地主であり村地先海面を独占し他の漁業者の利用を排除した。また、数個所の漁場を占有する代わりに漁場使用料として五分の一銀を領主に納めた。また藩では漁獲高20%に当る分の一銀を徴収したがこれが大きい収入であったので藩では網主相互の操業と網子の雇用との調整を企図し、新規漁業排除、小規模漁業を抑制しイワシ漁を優先的に奨励保護した。

 一方各漁村の漁民は曳子として強制的に漁業に従事させられた。網主への服従を約束する父子関係を結び、網主の土地を借りて農業を営み、イワシ漁の期間には網主のイワシ漁に従事した。藩が定めた歩合制の規程に従い網子と網主は46の比率で配分した。


 明治以後このような漁場利用方法を全面的に否定する太政官布告が1875(明治8)年に宣布されたが各地において漁場紛争が頻発したためにこの布告を事実上撤回従来の慣行を維持することにした。

 1888
(明治21)年には網主の特権と漁場占有が実質的に撤廃され漁場利用は輪番制が一般的になった。しかし1890(明治23)年台に新しいイワシ巻刺網が始められイワシ船曳網は衰退し1910(明治43)年年頃からは巾着網、改良揚繰
網が出現したことで今一度この新しい漁法に転換した。明治時代の内泊住民190戸のなかで漁場を利用できるものは僅か90戸、これらの人々はお互いに漁場利用権をもって漁をしていた。これ以外の大部分の人々はイワシ漁の労働者、イワシ製造業、回漕業労働者として暮らしていた。

 このように内泊では漁場は網主と呼ばれる何人かの特権層が所有しており漁民を拘束していた。村民は地先漁場を利用することができず誰でも利用できる入会漁場に進出したが遭難事故が多く漁場が狭くそれほどよい漁場ではなかった。このようにして内泊漁民は新しい漁場を求め朝鮮近海漁場に出漁することになり、結局長期間にわたって従事してきた船網漁の一種である面高網漁で得たノーハウをもとに、朝鮮に移住して巾着網漁に取り組むことを計画したのである。

(2)愛媛村の社会

 愛媛村は内泊漁民達が集団移住したので出身はみな内泊であり全員が漁民であった。1921(大正10)年の人口は37戸(167人)で内泊出身は35戸(154人)、その他に岡山県人1戸(5人)は石工、高知県人1戸(5人)は大工、愛媛県人1戸(3人)は雑貨商を営んでいた。このように愛媛村居住者はほとんどが内泊出身であったので母村である内泊の生活様式と文化がそのまま守られた。海の神を崇拝する若宮神社と浄土真宗の本願寺が建立され、お盆のときは内泊の伝統行事である獅子舞がそのまま再現された。

次は愛媛村の社会の性格を知るために漁業資金調達の方法について見ることにする。日本の漁村では漁業資金調達は(1)漁村内部の伝統的な社会的実力者が自分で調達、(2)村内内部の有力者数名が共同で調達、(3)全居住民が平等に出資し株分を負担する形式で調達された。(3)の場合2~4人がお金を出し合い1株式分を買うこともでき、反対に一人が何株かを出資することもできた。愛媛村の場合は全漁民が組合員になり1株200円を分配する形式で全戸が均等に出資したという。

 しかし山本は経済的余裕がある財力家であり山本は船を買って商売をしたという話があるように山本が他の漁民より多く出資したり、自分が所有した巾着網があったりしたようである。1928(昭和3)年慶尚南道水産会が慶尚南道漁業用機船を調査したものによると山本桃吉所有の巾着網漁船は6隻、山本の兄弟山本道三朗が所有した漁村は2隻あった。全戸が均等に出資した経営であったとすれば山本桃吉所有した6隻が愛媛村の共同財産であったようで残りの2隻は山本の家族の共同所有だったと思われる。

 愛媛村の経営方式は全漁民が組合員になり巾着網を共同経営し共同の土地を購入し共同で経営する協同化された半農半漁式経営であった。そしてそれぞれの漁民は漁業収入の剰余分を土地購入に当て農業を足場にした漁業を営んだ。

<図4 省略>は1920(大正9)年代の愛媛村の構成員と位置図をかいたものだ。

 これは解放(終戦)以前まで三千浦に住んでいた人々が帰国後「三千浦会」(「みちのうらかい」とも)を結成しその当時の記憶をたどって描いた地図である。この地図に描かれた住居地番号は各構成員につけられていた番号と一致している。<表1><図1>で見ると1315は浜辺に一番近い部落
の中心部に位置している。移住初期はこの場所では風が強く台風が来襲すると波が床下まで上がってきたということだ。13番家屋には山本桃吉、14,15番家屋には山本の二人の兄弟が住んでいた。この3家屋は他の家屋より二倍以上大きくつくられており移住者と違う出身であることを証明していた。全体的にみると1番から6番、7番から12番、16番から21番までは一つの建物に6家族がする日本式長屋形式で作られていた。この長屋の1戸分は建坪が12坪で、間口4.5m、奥行き9mだ。今もこの日本式家屋の全体的な骨格は残っておりヒノキで大層丈夫に建てられており天井の高さが5m程度で規模が大変大きい。

 
次に移住漁村の位置図を見てみると一号家屋~6号家屋と7号家屋~12号家屋の間には共同でムギを打作する広場があり15号家屋と22号家屋の間には山本の作業場があった。ムギ打作は内泊では各家庭でなされていたがここでは共同行事場を使って共同で取り組まれた。山本が作業する作業場は2階建ての簡易家屋であった。1階は作業場で、2階は村の人々が共同で使用する葬儀用品、法要のときに使われる品々を保管した。

次に構成員の関係を見てみると、大部分が親姻戚関係である。8番の鈴木繁三朗は6番の鈴木治五朗が実の弟で、4番、14番、17番は従兄弟だという。この組織関係をみると「橋を渡って姻戚」というふうにお互いに親戚関係で複雑に縛られていた。それで村の重大問題が発生した場合は住民全体が参与する住民総会を開き決定した。普通は10人からなる代議機関があり議決事項を論議し決定したという。

 

3 イワシ巾着網漁と移住漁民

(1)日本人移住漁村のサバ巾着網漁

 朝鮮沿岸各地に数十名単位の日本人集団移住漁村が出現し、これらの漁村を中心としてサバ揚繰網、巾着網などの船網漁業が開始された。1905(明治38)年頃には千葉県が慶尚南道馬山に建設した千葉村は千葉県の援助で揚繰網を試験操業し1911(明治44)年頃には本格的な作業に着手することが出来た。1903(明治36)年頃に建設された巨済島長承浦の入佐村は1908(明治41)年~9年にかけてサバ揚繰網、石繰網、巾着網を試験操業し1922(大正11)年に成功した。1911(明治44)年頃に移住した愛媛村も同年から巾着網漁の試験操業にとりくみ1914(大正3)年に至り最初の収穫を収めた。

(尾上注 揚繰網、巾着網などについての参考サイト→ここ

 このように移住漁村の漁民が自己救済策として始めたサバ巾着網漁が朝鮮漁場で大きな成果を上げると長崎県、山口県、広島県、愛媛県、香川県などの漁民が慶尚南道方魚津、青山島など朝鮮各地に出漁した。彼等は朝鮮漁場がサバ漁場として有望視し、サバ漁操業に適当な縛網、流し網、巾着網を装備して出漁し発展の一途をたどった。しかし、サバ漁が発展しその商業性が確実視されるようになると日本の大規模水産会社、運搬船業者は漁民に漁業資金を貸与することをやめて直接漁業経営に参画した。彼等はサバ漁に適当な漁具と機械式漁船とを開発し朝鮮漁場を席巻した。

 集団移住漁村が巾着網漁を始めた理由は移住民全員が生産手段である漁船を持っておらず中心人物の勧誘による部落単位の移住であったため彼等相互間に共同体的運命観を持っていた。そこでこれらの労働力を利用する労働集約的漁業が構想されたものと思われる。反面、サバは日本国内で市場性が強く資金回収が早く運搬商人との連携過程が容易で漁獲物販売面で有利であった。また国家的な目標より言っても日本国内に廉価な食料を供給するという面でも重要な魚種であった。

(3)   愛媛村のサバ巾着網漁

 愛媛村が建設された時期は朝鮮で巾着網漁がちょうど始まった時期でありその漁具漁法もいろいろで一定してなく大部分他の網を改造したものであった。最初愛媛村は旋網の一種である権現網を模倣して漁をはじめたが、魚網を広げると網の前に魚群がすり抜けるので分銅式に改良してサバ漁を行った。今も内泊には朝鮮網という固有名詞が残っているが網目は3cmで巾着網の構造をしていたという。(写真は権現網 マンホ製網社のホームページから)

愛媛村の巾着網では一つの網に網船2隻と小船3隻が必要だった。網船1隻には10名、小船には櫓の漕ぎ手4名と指揮を執るもの一人が乗った。全部で漁船5隻に漁民35名が乗船したわけである。

 これらの漁船が漁場に出漁するときにはボートと呼ばれる運搬船に先導された。この当時巾着網漁船は櫓を漕ぐ帆掛け舟であったので漁場までの移動に相当の時間がかかった。
しかし、動力船ボトの後ろに綱で網船をぎその網船の後ろには綱で小船を綱と云うやり方を採用し、これによってどの漁場にも簡に移動することが出るようになった。当時日本から朝鮮漁場まで出漁した漁船はこのような動力運搬船に曳かれて出動するのが普通であった。


漁場は三千浦近海であったがまもなくこの漁場が枯渇したので、方魚津、浦項、九竜浦など慶尚南北道などの海域に移転した。1920(大正9)年ころには2月~7月は慶尚南来た道、9月~1月は巨文島など全羅南道の各沿海で操業した。巾着網漁は正月とお盆(秋夕)以外は一年中操業を続けた。

主要漁獲物はサバとアジで高知県出身の運搬業者高瀬幾馬に契約販売した。運搬船業者は運搬船が魚で満杯になるまで漁場で待ち満杯になると直ちに下関へ運んだ。販売方法は一匹単位で仕分けされていたが、普通大きいサバは13厘、大きいアジは12厘で販売された。

1920(大正9)年頃、当時18歳で愛媛村のサバ漁に参加した吉田萬次朗翁の記憶によると彼は愛媛村所有で山本網と呼ばれていた巾着網に雇用され二回も三千浦へ行った。最初は内泊で網船を新造したのでこの船に乗り20名といっしょに三千浦まで櫓を漕いで行き、その次には日本と朝鮮を往来する連絡船に乗って三千浦に行き巾着網漁船に乗ったという。これ以後は1925(大正14)年浦項の近海で愛媛村の漁船を含む多くの漁船が沈没し640名が遭難したという事故が起き、次からは内泊の漁民達は三千浦へ行かなかったという。内泊浦にはこのときの惨事の犠牲となった人々の冥福を祈る碑石が残っている。

吉田氏は山本を「責任者」と呼び総責任者である山本の指揮に従って動いたと語った。沖合いの漁場に出れば遠くから白い泡を湧き立たせて近づいてくるサバの魚群を発見するとすぐさま操業を始めて網をめぐらす、水中でサバの鳴きが聞こえれば何人かの漁夫が水の中へ飛び込み魚群を沖合い側に向けて追いやる。一度網を入れると運搬船ボートが一杯になるまで漁獲を続けるのだが、このような漁を一日に5回ほど繰り返したという。沖合いで漁をするので漁場の周囲にはそれほど漁船が多くなくたまに長崎県所属の漁船に会ったりするとどちらがたくさん取るか競争したという。

漁業期間にはほとんどの漁民は船の中で寝るのだが、経済的余裕のある船長、機関長は陸に上って寝た。朝鮮人とも一緒に仕事をしたのだが、朝鮮人は雑用をする炊事夫を担当し、網船には12名、小船には1名が乗船した。毎月固定的な月給を1年単位で一度に受け取り、豊漁のときはお疲れ手当(スゴビ)と云う名目でボーナスも受け取った。日本人は幾ら受け取ったか分からないが朝鮮人の場合は24円受けとった。愛媛村の漁民は純利益金の2分の1を支給されたが豊漁のときは一人最高280円の配当を受けた時もあった。

1921(大正10)年には愛媛村には巾着網が3統 、漁村15隻、経営者数34人、漁獲高が年間5万貫に達し、日本人移住漁村中一人当たり平均最高の収益を上げた。1921(大正10)年総収益金は92,500円でこの当時1統の創業費が約13,000円であったことを考えるとこの利益は莫大なものだったことが分かる。そしてここの女性たちは家事をみんな朝鮮人に任せひたすら花札を楽しみながら暮らし、内泊では愛媛村は毎日酒を飲む楽しい日々が続いていたと伝えられていた。

1920(大正9)年を前後して朝鮮の巾着網漁が和船巾着から機船巾着網漁に転換し始めた。1919(大正8)年山口県水産試験場が朝鮮漁場で機船巾着網漁に成功するや、この漁法を利用する漁民が続出し1923(大正12)年からは本格的な機船巾着網漁法が始まった。当時巾着網漁船の中では鉄船6080トン、ディーゼルエンジン1013馬力、89優良い漁船もあった。1928(昭和3)年慶尚南道の機船サバ巾着網漁船の中で最も大規模なものは日本の大洋漁業所属の魚青丸、38トン、90馬力で1920(大正9)年にすでに機関を装備していた。

機船巾着網漁が能率的な漁法であったのでこの時期から大量のサバが漁獲された。サバ運搬専業者、漁業資本家が本格的に参加し巾着網漁規模はより一層大きくなり発展した。朝鮮各地にはサバ波市(尾上注 海上で開く市)が確立され数えきれないほどたくさんの漁船がサバ漁場に結集し始めた。

しかしながら1930(昭和5)年世界恐慌以後は、サバの豊漁は続いたのだが、需用が減少してしまい豊漁貧乏現象が生じその処理に多くの問題点が発生した。この問題を解決するために漁業者自らが総督府へサバ漁統制を建議したりもした。しかしサバは植民地漁場を利用して日本国内に廉価な食料を供給するという根本原則があったのでサバ漁業者間の自発的統制に任せるしかなかった。

それでは機船巾着網漁以後、愛媛村の巾着網漁はどのように変容したのだろうか。1928(昭和3)年度の機船巾着網漁のうち愛媛村所属(所有者が山本の家族名義になっている)漁船は8隻だった。その大きさは、新漁丸2隻はそれぞれ11トン、万小丸2隻はそれぞれ12トン、魁丸2隻はそれぞれ17トン、平漁丸2隻はそれぞれ12トンであった。慶尚南道サバ巾着網全158隻の平均トン数が15トン以上であったので愛媛村の漁船はこれより規模が小さく馬力数も低かった。

 その理由は先述の通り巾着網漁で多くの収益を上げたが余剰分を漁業に再投資せず土地などを購入するのに使用し、そこへ日本の資本家達の進出したためであった。その上に1925(大正14)年遭難事件があり巾着網3統 が流失するなどその復旧にも多くの資金が必要だった。結局運搬専業者である高知の高瀬幾馬に全部売却し漁業経営を放棄するほかなかった。ここで生まれた吉田定子氏の記憶によると高等小学校に入学した1933(昭和8)年には巾着網漁船は見られなかったということだ。

 

結  語

 

よく知られているように朝鮮の巾着網漁は1908(明治41)年日本人が朝鮮漁場へ導入したものを契機として始まったのだがこの漁業は多くの資本と技術、熟練した労働者を必要とする。そして日帝時代資本力がない零細な朝鮮人漁民はこの漁業に参入することが出来ず、ただ日本人に労働力を提供するに過ぎなかった。日帝時代の巾着網漁業は日本人の独占漁業であった。

この中で愛媛県の経営漁村であった愛媛村はサバ巾着網漁をするために内泊の漁民24戸が集団移住した。この漁民達は旋網の一種である面高網を永い間操業してきており内泊漁場である沖合い漁業に熟達した漁民達であった。また漁村生活がムギ、ジャガイモ、イワシで主食とするほど貧しかったが漁民達どうしでは学問的雰囲気が醸成されており精神力育成を土台とした教育が成立していた。漁民達は責任感が強く人間としてのつとめを最後まで完遂する使命感、愛郷心に満ちた人々であった。普通みられる無学な漁民の移住とは異質であった。このような内在的要因も愛媛村を成立させる重要な要素であったと思われる。

 またこの漁民達の朝鮮漁場への移住動機は愛媛県の漁業政策とともに内泊漁場の狭小化を朝鮮漁場で解決しようとすることにあったが、当時能率的な漁具をして注目されていた巾着網漁に試してみたい漁民達の意気込みも無視することのできない要因であった。愛媛村ではこのような性向をもつ漁民達が集団移住して巾着網漁にの確立に時間と努力を投資してついにこの漁法の先駆者となった。

しかし愛媛村は1930(昭和5)年代巾着網漁の発展過程で淘汰され解散になってしまった。その第一の原因として漁村経営の半農半漁的性格を挙げることができる。巾着網漁の利益金は漁民の安定的な生活を基盤とした土地購入に使用されたので資本を多く必要とする巾着網漁に投資できる資本が残らなかった。その一つの例として責任者山本は漁業収入で年を購入し精米所を経営した。すべての移住者とその子ども達が巾着網船に乗船したのであるが山本の長男は乗船しないで精米所で仕事をしたという。第2の原因はサバ巾着網漁民に漁業資金を貸与したサバ運搬船業者たちが朝鮮漁場が有利であること知り直接漁業経営に乗り出したことだ。これらの業者は資本力を生かして大型漁船と能率的な漁具を投入しこれまでより低コストで生産することができた。結局朝鮮漁場においてサバ過熱現象が起き、サバ運搬専業者から運営資金を貸与されていた愛媛村は資金不足の為サバ巾着網漁を放棄するほかなかった。

このようにサバ運搬船業者、漁業資本家がサバ漁業に進出した理由はサバが日本人対象魚種であるので販売市場が広く資本回収が速かったためだ。サバが持っているこのような市場性によって日本人社会の階層分化も急速に進み、一方朝鮮人は販売市場が異なるため巾着網漁に参入することが出来なかった。

 日帝時代サバ巾着網漁は漁船と運搬船が漁船団を組み朝鮮漁場で漁獲されたサバをそのまま日本へ運送し、サバ漁獲総量のなかで朝鮮本土に陸揚げされたものはほんの一部分に過ぎなかった。
そのような背景があったため、朝鮮漁場での巾着網漁の展は朝鮮漁場を利用する日本人漁業者の展であり、それは朝鮮人の低廉は労働力を基盤としてなりたったのであった。


ここで特記すべきことは巾着網漁の発展過程で高度な漁業技術を身につけていた愛媛村漁民たちが、当時の船長、漁労長などの高級人材不足を解消する貴重な人的資源となったことだ。当時巾着網漁で最も重要なポストは漁労長であったのだが、優れた漁労長の指揮に従って漁獲高の多寡がきまった。そして巾着網船が増加するにつれ各漁船の船主たちは腕利きの漁労長を手に入れるためにお互いに競い特別な待遇条件で雇用した。この過程で漁業技術を身につけている愛媛村漁民達はよい条件で漁労長、船長などに雇用され、朝鮮各地に散らばって巾着網漁発展の一翼を担った。

付  記

この論文を執筆しながら南宇和郡西海町史編集委員吉岡忠氏から多くの資料の提供を受け、内泊漁村の社会像を知ることができた。感謝の言葉を伝えたい。そして愛媛県立図書館は愛媛県史などをはじめとして多くの資料を韓国まで送っていただいた。特に西海町でご高齢にもかかわらず聞き取り調査に応じていただいた吉田万次朗(西海町中泊居住、1902年生)、吉田定子(西海町中泊居住、1921生)、鈴木豊子(西海町船越居住、1911年生)、吉沢治郎などをはじめとした多くの人々にたいして遅くなってしまったが感謝の言葉をささげたい。また三千浦を訪問した折自ら愛媛村まで案内し説明していただいた東西錦洞住民等に感謝したい。

 

 

 

 

老馬新聞