2007年7月7日
轟博志論文
『朝鮮に於ける
日本人農業移民』
2
不二農村愛媛村の誕生
老馬新聞

(再掲)
『植民地朝鮮と愛媛の人々(仮称)』出版の関係で漁業関係についてはかなり展望が開けてきているが農業関係がまだ弱い。西予市三瓶町の聞き取りで二及の漁民の韓国慶尚南道莞島への移民には『漁業開拓移民団』(三崎村出身者)と『農業開拓移民団』(二及浦出身者)があったとの話が出ていたが『農業開拓移民団』についての調査はまだ出来ていない。

こんなときネットを検索していると轟博志氏(立命館アジア太平洋大学准教授)の論考『朝鮮における日本人農業移民』にたどりついた。韓国人が日本人によって農地を奪われた過程がよく分かる論文である。例の如く要点を書き取っておこう。( )内は要約。



2 水利王・藤井貫太郎
  1. (東洋拓殖が進めた農業移民政策が失敗に帰した一方で日本人資本家による農場経営には目覚しい進展があった。)農場経営が内地の大資本を必要としていたのは、主として灌漑施設のためであった。・・・日露戦争が終結した頃より、日本人農業資本家が、次々に朝鮮に移住してきた。藤井貫太郎もその一人だった。
  2. 藤井は(吉野川に平行する伊予街道に近い))徳島県(吉野川市鴨島町喜来)乗島出身の資本家で、日露戦争直前に韓国に渡った。
  3. (全羅北道)益山の周辺で既耕地を買収して、「全北農場」を設立。(同時に)朝鮮で最初に公認された水利組合である「臨益水利組合」を設立した。(「臨益」は「臨陂」地域と「益山」地域)
  4. 藤井は(益山の北にあった古代の溜池の遺跡を)浚渫、修復して(自らの農場を含めて旧益山と臨陂一帯の農場の)水源とした。更に(全州郡参礼から万頃江の水を引いた)。
  5. 全北農場が確保した農地は、万頃江流域の湿地帯など未墾地と、藤井が買収した既耕地が混ざり合った農場で、日本人移住村ではなく朝鮮人小作と使った農場であった。
  6. (藤井は)内地在住の資産家を対象に、朝鮮農地の信託管理事業を開始、・・・(これが大きな利益を産み)大規模干拓事業に進出する資金源となった。
  7. (臨陂地域での)水利工事は1911年に完成した。
  8. 1915年には・・・新義州付近の(黄海海岸を)干拓し、「大正水利組合」及び「不二西鮮農場」を組織した。ここでも・・・すべて小作に任せた。干拓地の先端に外資を導入し、政府の補助を仰いで不凍港(多獅島港)を建設し、鴨緑江地域の朝鮮側の玄関口として機能した。

3 不二農場と日本人移住農民

  1. (朝鮮独立運動の年でもある)1919年、藤井は、彼の吸いr事業の総決算とも言える、不二農村の建設に取り掛かる。
  2. (それは)全羅北道群山の近く、黄海岸に広がる干潟2,200町歩を干拓して、一大稲作地帯を造成する計画であった。水源は万頃江上流の峡谷部に大雅ダムを建設し、大幅に増える用水需要に対処した。
  3. 更に干拓地の中央部にも揚水式の貯水池を設け(冬季に備えた)。
  4. 池の南側は是迄どおり朝鮮人小作人を収容した「不二沃溝農場(沃溝は群山に隣接)」であった。
  5. 北側(の沃溝干拓地)は、初めての試みとなる日本人農民の移住村「不二農村」であった。
  6. 藤井は既耕地へ割り込む形での移民は、失敗することを体得していた。
  7. 藤井は自分のやり方の妥当性を訴え日本政府から融資受けることに成功した。
  8. (藤井は)日本人自作農家を全国から集めて300戸の移住を計画・・・。1戸当たり3町歩が支給された。敷地内には戸建の住宅が支給され、家の前には自足用の畑が設けられた。群山との間には幅3間の自動車道路を開通させ、バスが一日四往復した。
  9. 移民は第1回1924(大正13)年、第2回1928(昭和3)年、第三回1932(昭和7)年と三回に別けて行われた。
  10. 農村の中にはおおよそ10戸を単位として集落がけいせいされ・・、それぞれの村には、宮城村、大分村、唐風に出身県別に集住するようになっていた。
  11. 第2回の移民で愛媛村が誕生した。
  12. (こうして)朝鮮人との葛藤が消えたわけでは全くないが、少なくとも直接的・致命的な被害を及ぼす必要がなく、或る程度の共存関係が築かれた点は(東洋拓殖会社の移民政策にはみられない)変化といえよう。