2007年月日
轟博志論文
『朝鮮に於ける
日本人農業移民』
老馬新聞

 『植民地朝鮮と愛媛の人々(仮称)』出版の関係で漁業関係についてはかなり展望が開けてきているが農業関係がまだ弱い。西予市三瓶町の聞き取りで二及の漁民の韓国慶尚南道莞島への移民には『漁業開拓移民団』(三崎村出身者)と『農業開拓移民団』(二及浦出身者)があったとの話が出ていたが『農業開拓移民団』についての調査はまだ出来ていない。

こんなときネットを検索していると轟博志氏(立命館アジア太平洋大学准教授)の論考『朝鮮における日本人農業移民』にたどりついた。韓国人が日本人によって農地を奪われた過程がよく分かる論文である。例の如く要点を書き取っておこう。


はじめに

  1. 1876年の江華島条約から1945年まで、日本の朝鮮統治の歴史は日本人移民の歴史であった。(忘暮楼:これは我々の今回の切口でもある。日本の金持ちや貧乏人の参画が朝鮮植民地経営の重要な柱といえる。)
  2. 朝鮮には多いときで70万人を越える在朝日本人が居住していた。

1 東洋拓殖による農業移民
  1. (東洋拓殖は)日本人資本家と親日的な韓国人地主が結託して、夫れを(日韓)両国政府が後押しした形に他ならなかった。(忘暮楼:資本家、地主のなかには両国皇室が含まれる)
  2. 東洋拓殖が農業移民のために準備した土地は約10100町歩に及ぶ。(愛媛県の現在の農地面積59490町歩の約17%)
  3. これ等の多くは(韓国の)国有地の払い下げを受けたものであった。・・・未墾地の場合はともかく、ほとんどは・・・すでに小作人が長年耕作していた土地であった。(忘暮楼:これらの国有地はは李朝時代、駅土や屯土など、政府の軍事、輸送関係機関従事者の自給自足の為の農地として使われた土地で、そこでは多くの小作人が雇われ農業を営んでいた)
  4. 東洋拓殖による農業移民は日韓併合の年である1910(明治43)年より始まった。・・・当初移民の種類には甲種と乙種が存在した。
  5. 甲種は将来的に自作農になることを目的として、東洋拓殖の所有地を1戸当たり2町歩借り受ける制度であった。不動産等の代金は5年据え置きの跡長期低利にて償還し、完納の後に所有権が移転することとした。(忘暮楼:この場合従来の韓国人小作は農場から放逐されることになり日本人=東洋拓殖会社との間に深刻な対立を生じた)
  6. 乙種とは、東洋拓殖の所有地において移民が小作をなすものである。(乙種はのちに廃止された。甲種のほうは第1種移住民と第2種移住民に分かれた。第1種移住民は甲種とほぼ同じであるが第2種移住民は1戸当たり十町歩の大規模農場経営に途を開くもので韓国人小作農の雇用を旨とした)
  7. (東洋拓殖会社と韓国人小作人との対立の最大のものは)1924(大正13)年に発生した。現在の北朝鮮にあたる黄海道の穀倉地帯、載寧平野においても多くの日本人農民が入植し、特に載寧郡北栗面には、団体移民(忘暮楼:移民には単独移民と同郷農民の団体移民とがあった。1916(大正5)年入植の「二及村」は団体移民の方式だ)が集中していた。入植する過程で、ほとんどの小作人は別の地域、特に間島地方へ移住していった。しかし、移住するだけの財力がない一部の小作人たちは立ち退きを拒否し、篭城して日本人移民の入植を実力で阻止した。業を煮やした移民たちが強制執行の過程で発砲したことで、対立は極に達した。
  8. 1926(昭和1)年(東洋拓殖会社の)移住事業中止。小作争議の頻発、余裕土地の僅少(が原因)。