2007年6月21日
金秀姫論文で
魚島漁民を読む
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老馬新聞

先日魚島を訪れたとき『魚島村史』の資料編のコピーをいただいた。そのコピーの中に韓国慶尚北道金泉大学講師金秀姫氏の論文が抄出・紹介されている。興味深い内容の論文であった。以下要点をメモしておきたい(このメモの文章は自分の理解の為めに原文を少し書き変え、ないし加筆してあるところがあることをお断りしおく)。

※出典は「水産業史研究 第7巻別刷り」所載の金秀姫論文「植民地時代移住漁村『小魚島村』と巨済島旧助羅」


  1. (黄金漁場)旧助羅近辺水域は「殖民時代は黄金漁場とよばれ」八つの漁場でカタクチイワシ漁が営まれた。敗戦で帰国するまで権現網漁が続けられた。
  2. (1926年以降はカタクチイワシの値段が暴落し日本人漁民の生活は苦しくなった)明治以降敗戦までの期間に日本人の権現網漁は「漁船の動力化、漁具の機械化など」が進められたが漁獲高は1890(明治23)年のレベルに推移した。カタクチイワシ1貫の価格は1916(大正5)年で1円であったものが1918(大正7)年に1円30銭〜40銭まで上昇したが、1926(昭和1)年以降は60銭〜70銭に暴落した。
  3. (赤字経営続く)「1931(昭和6)年満州事変以後、価格が少し上昇したが、長い間の赤字のため、漁民の生活は貧しくなり」借金を返せなくなるものやカタクチイワシ漁の継続を断念するものが続出したという。1930(昭和5)年の調査によると、全体のカタクチイワシ権現網業者の半分ほどが赤字運営をして、権現網一統で約200円ほどの損失をしていたと報告されている」。
  4. (本国と旧助羅の往復)漁期を終えて帰国する日本人漁民は、権現網の網船を利用した。ただし、運搬用などの小船は旧助羅の納屋に残した。翌年はまた網船で旧助羅へやってきた。
  5. (関釜連絡船)「1919(大正8)年関釜連絡船ができてからは」日本人漁民もこれを利用するようになった。