2007年6月18日
金秀姫論文で
魚島漁民を読む

老馬新聞

先日魚島を訪れたとき『魚島村史』の資料編のコピーをいただいた。そのコピーの中に韓国慶尚北道金泉大学講師金秀姫氏の論文が抄出・紹介されている。興味深い内容の論文であった。以下要点をメモしておきたい(メモの文章は原文を少し書き変えてあるところがある)。

※出典は「水産業史研究 第7巻別刷り」所載の金秀姫論文「植民地時代移住漁村『小魚島村』と巨済島旧助羅」

  1. (経過概略)魚島出身漁民たちが1891(明治24)年ころ旧助羅に進出し、何百人もの漁民がカタクチイワシ漁に従事した。彼等は1910(明治43)年の日韓合併以前に「日本人会」「日本人学校組合」を設立するなど日本人自治団体が出来あがっており、日韓合併後一時は日本人移住漁村の代表的な存在となった。しかし、旧助羅の周囲にあった日本人移住漁村、知世浦・長承浦が発展するにつれて旧助羅の人口が減少し漁業も低迷し零細漁業へと転落した。
  2. (魚島の漁民)魚島は古代より瀬戸内海の海上交通の要地であった。魚島は漂流漁民が定着した島である。天保年間にはすでに九統の網本が漁撈に携わっていた。※「漂流漁民」についての参考サイト→ここ<宮本常一の文章が引用されている>
  3. (魚島の農業)魚島の畑は山肌を剥いで作った段々畑。作物は豆やサツマイモしか作れなかった。肥料は収穫物などは女性が頭に載せて運んだ。
  4. (巨済島旧助羅の社会)旧助羅は同族村でほとんどが平民だった。旧助羅から公への献上物は貽貝(イガイ)など海産物、シイタケ、椿油、牛の皮など160余種であった。献上品を共同で納め、重要案件も村民で相談して決定していたこともあって共同体意識は強かった。(右の写真は貽貝)
  5. (巨済島旧助羅の人口)1863(文久3)年246人、1884(明治17)年221名、1909(明治42)年109戸500名。漁業とシイタケで生計を立てたが彼等の漁業生活についての記録がない。1909(明治42)年の『韓国水産誌』では総戸数109戸のうち漁業は5戸(4.6%)、漁船は5隻、細網三個と記されているというから旧助羅の漁業はごく小規模なものであったと思われる。