2007年6月4日
魚島訪問 2
老馬新聞

 宿に荷物を置いてさっそく調査に入る。といっても当てがあるわけではない。この島には以前県会議員をされていたSさんが隠棲されていると聞いていたが準備不足でコンタクトが取れてない。まずはと、宿の隣にある上島町魚島総合支所を訪ねた。
 支所の職員に来意を伝えると奥の部屋から男性職員が現れた。この方が支所長のNさん。奥の部屋に案内され、そこでもう一度魚島訪問の目的を説明した。聞けばこのNさんが先日魚島を訪問した韓国巨済島の愛光園園長さんを迎える催しの責任者でもあった。私の持参した巨済島旧助羅における魚島漁民のコレラ病罹病の資料
初めて御覧になる資料だったそうで大変驚いておられた。

 懇談のあと、これにはまことに恐縮してしまったのだが、支所長さんが村内の案内をしてくださることになった。折角の機会なのでご厚意に甘えることにした。

絵の写真はクリックすると大きくなります。拡大された写真の上にカーソルを置くと右下に外向き矢印が四つ付いたアイコンが現れます。それをクリックするとさらに拡大されます。

先ず案内していただいたところが旧・植田旅館(うえたりょかん)。ここに『『魚島村史』に紹介されている掛け軸絵『愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況』が保存せられある。主の老婦人にN支所長が来意を説明してもらった。
支所長さんが老婦人の指示で四本の掛け軸の箱を持ってきてくださる。この中の一番長いものがくだんの『愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況』図である。さっそく箱から出したが大きくてかけるところがない。そこで支所長さんと同行の妻が二人がかりで絵を立たせ、私が急いで写真を撮るということになった。
貴重な写真である。『魚島村史』の写真では分からなかったが船だけでなく島の集落の様子、山の畑の様子なども細かく描いてある。1907(明治40)年10月と認めてある。

『魚島村史』に、これらの船はもともと八丁櫓であったのだが、韓海に出漁するときはそれを四丁櫓にしたとの記述があったが、一隻の乗組員が十数人なので、四人ずつで漕げば残りの八九人が休めるということのようだ。八丁櫓ではすぐに漕ぎ番がが廻ってくるので十分休養がとれないだろう。
先頭の船はいよいよ帆を揚げようとしている。



『愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況』図の集落部分である。現在の戸数と余り違わないのではないかといった印象である。図の船溜りは下の1981(昭和56)年の船溜りの半分の広さのようである。鮒溜りが下の突堤まで拡張されたのであろう。
集落の裏から左上にかけて山の斜面は畑として利用されている。現在は畑は既に捨てられ自然林(二次林)に帰っている。
1981年の同地。上の絵は沖合いから集落を眺めた図となっている。
山の部分。島の山岩場以外は畑として開墾してあった。

『魚島村史』は韓海への出漁のようすを次のように記録している(再掲)。

  1. 八丁櫓を四丁櫓に滅らした漁船に乗り組んだ。
  2. 親船二隻、子船六隻の八隻で船団を組んだ。
  3. 2月末に魚島を出発した。
  4. 櫓と帆で約12日かけて釜山に近い巨済島(コジェド)をめざし必死に櫓を漕いだ。
  5. 途中は、船のへりに竹を立て、シトミを張ってしぶきを防いだ。
  6. 現地に着くと、大小8隻、約40人が一統となり、300日間ぶっ通しでイワシを追った。
  7. イワシは年中獲れた。イリコを作って日本へ送った。
  8. サバの漁期はは3月から5月までと、9月から11月までの二回。
  9. 300日の間めったに上陸することはなかった。
  10. 一月の末、魚島にかえってきた

右側に描かれた船団。「魚島村史」の関係箇所要約ページは<ここ>。24隻の船が描かれている。上の記述従って8隻を1統とすると、この図は3統が出漁中ということか。
支所長さんに島内第一の神社、亀居神社へ案内してもらった。ここの宝蔵庫に韓海出漁関係の奉納額が保存されている。
亀居八幡神社拝殿。拝殿後方には玉垣がめぐらされている。
亀居八幡神社宝蔵庫
大正12年4月13日、横井玉吉が奉納した額絵。その年横井玉吉たちの組は韓海で台風に遭遇した。連絡が途絶し全員死亡かとあきらめていた頃無事帰還の報が届いた。一同は船はばらばらに壊れたもののある島の島陰で九死に一生を得ていた。八幡様のご加護とこの額を奉納したのである。命がけの韓海通漁であった。
この額絵は大漁の御礼に奉納されたものだが背景の島影からして魚島近海とは思えず、恐らく韓海通漁の一光景ではなかろうかとは、支所長のご推理である。大正7年正月吉日奉納である。

玉垣には韓海通漁関係者の名前が残されている。次の表は1902(明治35)年の韓国巨済島旧助羅でのコレラ病についてのまとめであるが、この中の事業主達の名前が読める。
左の写真には大林善作、竹部音吉の名がある。六人の死者を出した小泉和太郎、四人の死者を出した竹部音吉はこのあと韓海出漁をやめたという。

事業主姓名 健康者 患者
(全治)
患者
(死亡)
逃亡 総人員 残人員
小泉和太郎組 20人 3人 6人 3人 33人 24人
竹部音吉 22人 2人 4人 4人 32人 24人
大林善作組 31人 2人 0人 1人 33人 32人
横井辻松組 29名 2名 3名 0名 34名 31名
横井庄平組 32名 0名 0名 0名 32名 32名
合計 134名 9名 13名 8名 164名 143名
総人員は5組164名。うち患者22名、13名死亡、9名全治。逃亡8名、残留者143名である。

ここには「一金百円横井庄平」の名がある。横井庄平組は旧助羅でのコレラ流行の際も、一人の罹患者も出さなかった。
横井庄平の墓。ここの訪問も今回の小旅行の目的であった(ところが数珠、お線香を忘れてしまい失礼してしまった)。
 支所長は横井庄平の息子横井米冶のひ孫?に当る婦人を訪ね墓までの同道を頼んだ。

 p/s 私たちがお会いしたこの島の女性たちの品のよさにはちょっと驚かされた。たまたまそんな女性にだけあったのか、いやそうではない、何かありそう、といった感想。


「旧助羅のコレラのことは聞いたことがありますよ」とのことであった。
 韓海に活躍した横井庄平の墓が船団を漕ぎ出した魚島の港を見下ろしている。
 横井庄平の墓。