2007年5月14日
海南新聞
1909(明治42)年
2月16日〜23日
1909(明治42)年2月16日
●統監慰労御陪食
伊藤統監は二十日大磯滄浪閣に入り一両日静養の上二十二日頃上京 直に宮中に参内親しく韓国の近事と同帝室の御近況及び南北巡幸の結果等に就き委細奏上し且つ特に勅使を賜はりたる御礼を言上する筈なるが 至尊には統監の労苦を思召され特に慰労の為め懇切なる御陪食を仰付けらる丶由。

1909(明治42)年2月17日
●奇怪なる韓帝
韓国皇帝の巡遊は日韓両国の和親を鞏くするに効果ありたる如く伝えられ居れるも 到る処豊太閤征韓の役に韓国の為に巡視せるもの丶忠義を表彰し 之が後裔の宅に策名使を発し 又金品を救恤する等の事をなせるを以て 排日思想は勃然として起れる旨 社友の許に報じ来れるものあり 伊藤公が付添居りながら此の如きことを為さしむるは奇怪至極に非ずやと韓京通信に見ゆ。

1909(明治42)年2月19日
●拓殖事業開始
拓殖会社は目下事業の開始につき重役の協議中なるが第一着に貸付を開始する筈にて金融部の職員着任を待ち貸し付け規則を発表する由

1909(明治42)年2月20日
●伊藤公と西侯
西園寺侯は十七日午前
(ママ)四時より伊藤統監を滄浪閣に訪問し数時間要談せり

1909(明治42)年2月23日
●伊藤統監御召
伊藤統監は宮中の御召に依り二十三日午前十一時参内 親しく韓国帝室の御近情及び同国の近況並に南北御巡幸の事情を詳細に言上すべき旨特使を以て御沙汰を賜はりたり

※海野福寿『韓国併合』に次のような記述がある。
(p204)---伊藤が北韓巡幸から漢城へ帰着したばかりの2月23日、衆議院本会議で猶興会が改組した又新会の大竹貫一が、統監政治を攻撃する長広舌の演説をおこなった。大竹はのちに普選運動でも活躍するが、大概強硬派で鳴らした代議士である。彼は、伊藤の失政を逐一とりあげ、「宗主国がる我帝国の威信」が地に墜ち、「排日熱が昂まって」いるのは、伊藤が欧米の批判を気にして、「懐柔政策」をとっているためであると避難した。---

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