2007年5月5日
海南新聞
1909(明治42)年
1月15日〜17日
老馬新聞
1909(明治42)年1月15日
●韓国
太皇帝
の
渡日
((韓太子の許婚))
韓太子の配偶者選択に就いては 予て韓皇より伊藤大師へ一任せられある次第なるが大師は已に日本人なる某高貴令嬢を候補者とし定め太皇帝及現皇帝の同意を得たるを以て 統監は今回南韓旅行を了へ次第 直ちに東上し諸般の準備を整へ 東京に於て太子許婚式を挙ぐる都合なりとの事なり、右許婚式には太皇帝を始め李太子少師其他大臣元老等多数の参列者あるべき筈にて 厳妃は妊娠中故参列を見合せらるべしとなり((韓京特信))
東京電報
1909(明治42)年1月15日
●
梨本宮妃殿下
十三日午後発
梨本宮妃殿下本日仏国御渡航御出発に付き皇后陛下を始め奉り各宮殿下朝野貴婦人の見送り盛んなりき
1909(明治42)年1月15日
●
韓皇
と
帝国艦隊
十一日第一艦隊司令長官へ下されたる勅語左の如し
朕釜山に於て貴 天皇陛下の懇切なる至意に報いんが為 第二艦隊に親臨し其の壮大なるを目撃し 今日又馬山に於て親から第一艦隊に臨み軍容の壮大優勝なるを睹る 之を推して日本海軍の勢力如何を想見するに足る 今卿等と一卓の酒を把るは衷心より最も欣悦とする所 朕は爰処に卿等と共に杯を挙げて遥かに貴 天皇陛下の康寧を祝す
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1909(明治42)年1月16日
●
間島の清韓人
日清間の同問題の争点とする要旨を聞くに間島現在の韓人は 帰化したる清人なりや依然韓人なりや といふ二点にして 領土権問題は寧ろ従たる関係に在り されば同地が清国の領土なりと解決さる丶暁にも 事実上同地人口三分二以上の韓人と 彼等が私有する地権とに異同を生せざる限りは 現状に大いなる変化を生ぜす 而して清国は同地韓人を帰化(人)と看做さんとし 我は多年の歴史より推して弁髪清服せざる韓人を漫然帰化人と称すべからざるを説き 其管轄権の韓国に在るを主張し居る次第にて 場合に依りては×土×の名は清国に譲る代りに×人統治の公私×を我に収むることとなるやら計り難し
1909(明治42)年1月17日
韓京通信
清家塋三郎
(前略)
○事情右の次第、今度とても小生の地位に当り障りなく、他面に於ては県下移住者の参考たるべき、農業、水産、鉱業、製造業等の生産状態より、教育、学術、宗教の現状、並に気候及び風俗の一斑など、続々通信度すべく候。
○さて本日は何から申上げて宜しきやら、一寸思案にあまり候。−それよ、思ひだしたる事の候。昨日、所用がたりて南大門外に於ける韓人町を通行致し候。其の節何心なく韓人家屋の屋根を見候ところ、どの家も、屋根の上に野菜用の玉菜を植へあり候。つまり屋根の上を野菜畑にせるものに候。之れ豈に天下の奇観に候はずや。
○嘗て小生東京に遊べる砌り、三越呉服店に至りて其のガーデンルーム、即ち屋上庭園に上り、地を抜くこと数百間の三階大建物の屋上に、秋は紫苑、女郎花を草々咲き匂ひ、泉水の中には金魚と鮒を養ひ、乾の方稲荷大明神を祭れる祠あるを見て、驚き候と同時に、所詮三越を除きては斯くばかり屋上を利用するもの有るべしとは思ひも寄らざりしに、故国を去ること幾百里、こ丶朝鮮へ来てこの屋上利用を見、なんとも云ひ難き心地いたし候。
○尤も韓国通なる露国人ウヱーベリ氏の云ふところに依れば、韓人は牧場の何物たるかを知らず、苟も耕作に適する土地は絶対に耕作して空地を存することなく、四十五度の大傾斜を有する山の斜面と雖も 悉く之れを耕作し、耕作に適する土地とさへ云へば一小塊の微と雖も甚だ之を珍重すと。されば屋根の上に播種する理由も了解するに難からず候。随つて我日本より移住農業に従事するものは、茲に思いを潜むべき必要あること勿論に有之候。((十二月一日))