2007年5月20日
海士(あまし)の
朝鮮海進出
老馬新聞


伊方町釜木の防波堤の外側で海士(あまし)がヒジキを採取していた。潜水漁は女性が従事することが多いようだが佐田岬では昔から男性が従事する。
メロディラインは伊方町串の手前で左右に分かれる。二つの道が合流するあたりに2基の頌徳碑がある。植田虎一頌徳碑と加藤太郎松頌徳碑である。二人とも海士(あまし)の朝鮮海進出に力を尽した。
串の手前で二手に分かれる道を瀬戸内海側の道をたどり串の集落を過ぎ下り坂になるあたりに掘割がある。掘割右側を見上げると大きな石碑が見える。これが植田虎一頌徳碑である。
植田虎一は『三崎町史 第4編第3節 韓国水域への通漁』には登場しないが、同書「人物」には次のように記されている。

安政元年(1854)十月5日串に生まれる。家業の農業、染色業、海産物問屋業に従事する。明治22年串、正野方面で採れる魚介類などは、外来商人の手で商され、漁師の不利益な立場にあった状態を目視するに忍びず、同志に呼びかけ丸一組合を組織し、直接販路を自らの手により、阪神方面を中心に開発し福利増進に尽くし功績をあげた。さらに明治27年ごろ、漁業の海外進出にも着眼し、朝鮮進出を計画、第一次として海士(あまし)50名余りを選抜し朝鮮全羅南道麗小郡祈安島へ出漁し多大の成果をあげ朝鮮出漁可能な礎石をつくった。当時その功績に対し愛媛県遠洋漁業団長より表彰された。また在世中郡会議員、村会議員にも推され永年公共事業の推進にも貢献した。
この記述に出てくる「麗小郡」であるが、韓国地図で当ってみたが、全羅南道には該当する郡はないようだ。「麗川郡」が実在するので「川」を「小」と誤読したのかもしれない。また「祈安島」もまだ確認できていない。「麗川郡安島」と云う島がそれかもしれない。
加藤太郎松の碑はメロディラインを背にして、佐田岬港を見下ろす位置に立てられている。
記念碑の正面である。
加藤太郎松はは『三崎町史』の「人物」に次のように紹介せられている。植田より三つ年下だ。『三崎町史』とちがってこちらは朝鮮進出についての記述がない。
安政4年(1857)3月8日串に生まれる。明治22(1889)年時の動向を察し産業に意を用い丸一組合を組織し、煮干鰯、海藻、鯣(スルメ) 製造改良を奨励した。また同年(ママ)38年信用組合を設立する等水産界に尽した功績に依り明治40年関西九州府県連合共進会より水産功労者として表彰された。また学務委員(源教育委員)、村会議員、村長、郡会議員等の公職も歴任し、特に成年の風紀の振粛に留意し自ら率先して夜学会を創設し、学校建設する等地方自治にも貢献した。昭和11年10月12日没、享年79歳。
加藤太郎松頌徳碑の碑文には「於朝鮮近海従事・・・」の文字が読める。