2007年5月16日
『三崎町史』
老馬新聞

 5月15・16・17日、バイク(ホンダスティード600)で佐田岬をまわってきた。私は昔は、といっても20歳代のことだが、職場まで片道20キロをバイクで通勤していたが、その後クルマに乗るようになったのでバイクはかれこれ40年ぶりだ。クラッチはアクセルの操作も忘れてしまっていた。

 購入先のバイク屋さんで基本的なことを一通り説明してもらい、五、六分試運転してさっそく往復二百数十キロのツーリングに出発。まことに無謀な話である。それでもだんだん運転の要領を思い出し大洲市長浜についたころはまあまあこなせるようになっていた。

 三崎町(伊方町三崎)ではまず公民館の図書館を訪ねた。

 海南新聞には神松名村の韓海出漁の記事が何度も出てくるが、韓国のどこへ行ったのが分からなかった。其の辺を確認したいというのが今回の佐田岬訪問の目的の一つだった。公民館ではまず、図書館をお邪魔し「三崎町史」の関連事項を書写した。この本は松山でも見られるが現地での書写はそれなりに気が引き締まる。

以下『三崎町史』から要点をまとめておく。このように現地の地名が「
韓国の南岸」以上には明らかでない。



  1. 『三崎町史』第4編第3節 韓国水域への通漁
  2. この部分は武知利博著『三崎における出稼ぎ漁業の変遷』から転載
  3. 1887(明治20)、串の加藤太郎松が年鮑(あわび)、栄螺(サザエ)の缶詰工場を設立
  4. 当1894(明治27)年、地域での鮑、栄螺の漁獲量不足対策および乱獲防止のため、三崎町串の加藤太郎松兄弟の「丸一組」がテストケースとして三崎の海士(あまし)を雇い韓海に出漁。
    1. 丸一組が親方となり漁民を雇用して集団で出漁した
    2. 5〜6トンの無動力櫓舟で隊を組んだ
    3. 25日〜1ヶ月で韓海に到着
    4. 現地で五ヶ月間漁撈に従事、9月〜十月初旬に帰村
    5. 漁獲物は現地で売った
  5. 1899(明治32)年、丸一組が韓国に缶詰工場の分工場を設立。以後大正末まで本格的に出漁した。
    • 雇用出漁ではなく、漁民の自立的通漁であった
    • 毎年八十隻以上200名前後が韓海へ通漁した
    • 一隻に6名程度乗り込み、船内起居で漁撈に従事した
    • 一人平均100円内外の漁獲高を上げ、佐田岬での沿岸漁業に従事するより有利だった
    • 鰤釣り漁業もやっていた

  6. 『同書』第4編第4節 明治から大正昭和にかけての鰯網漁業
    明治から大正昭和にかけて朝鮮の南岸に60年間も出稼ぎを行った

  7. 『同書』第4編第6節 水産団体
  8. 明治37年・38年戦役(日露戦争)
  9. 1905(明治38)年6月 朝鮮海出漁の資金貸し付けのため三崎信用組合設立
  10. 1906(明治39)年9月 同じ理由で神松名信用組合設立
  11. 1949(昭和24)年新漁業法で漁業組合に移行