2007年月日
二及での聞き取り
老馬新聞

●松下繁男氏談

  1. 1923(大正12)年5月5日、莞島で生まれた。徴兵検査を受けた20歳(昭和18年)まで莞島で暮らした。
  2. 松下氏の母方の内宮一族は二及出身で1916(大正5)年「農業開拓移民団」として莞島郡内里に移住した。
  3. 父方の松下一族は松山市高浜出身で莞島カマクミに「漁業開拓移民団」として入植した。鯛の一本釣りで生計を立てていた。
  4. 母方の祖母内宮クラは山中で金色の蛇を見た。そのまま倒れ高熱を出した。拝んでもらったところ、昔近くの海で日本人が遭難して死んで竜となった。それがたたっているから供養せよということだった。その後底へお堂を建てたところ、祖母は漁の吉凶を占う能力を持つようになった。祖母は字を知らなかったので一時二及へ帰って文字の勉強をしてひらがなが使えるようになり、莞島に帰って漁の吉凶を占った。
  5. カマクミで漁業を営んでいた父もこの占い師に拝んでもらうことがあったようで、占い師の娘を嫁にもらうことになった。この人が私の母で、郡内の内宮からカマクミの松下へ嫁入りしたわけだ。
  6. カマクミは周木(愛媛県西予市三瓶町周木)のように、海の傍まで山が迫った地形の村だった。
  7. カマクミには三崎の出身の浅野という人がいたのを覚えている。
  8. その後父も郡内に移り住み、漁業をやめて豆腐やこんにゃくを作り野菜をつくって天秤棒で運んで売りさばいていた。儲けたお金は竹筒に入れていた。
  9. 私にも竹筒をくれて仕事を手伝ったお小遣いを貯めさせた。登校前に豆乳や牛乳を配達した。
  10. 朝鮮人は仕事に生を出すという様子ではなかった。道端でチゲ(大きいオイコ)をかついで居眠りしたり煙草をすったりしてのんびり暮らしていた。草引きをやらせて野菜をやるとよろこんでいた。
  11. 日本人が入植してからは、日本人の農作業を手伝うとイモをくれるので、朝鮮人の農民がだんだん日本人の手伝いをするようになった。
  12. 昔コレラがはやったという話を聞いたことがある。
  13. 父親は私が尋常高等小学校5年生のときに死んだ。竹筒にお金をいっぱい残して死んだ。
  14. 尋常高等小学校には朝鮮人の子どもも在籍していた。日本人だけでは人数が少ないので朝鮮人の子どもの成績のいい子を入学させていた。
  15. 学校では韓国語を習った。最初に習ったのは「ソ ソナム トゥルミ ポドゥナム ソナムカジ」、84歳の今も韓国語の勉強をしている。
  16. 郡内の入り江は遠浅で沖に珠島というきれいな小島が浮かんでいた。郡庁のあったところは埋立地で、ハマに船着場があり、そこからハシケで沖に停泊する定期船に乗り込んだ。郡庁の後ろの小高い場所に日本学校=高等尋常小学校があった。
  17. 尋常高等小学校を卒業して莞島郡海苔漁業組合に就職した。一日五十銭だった。
  18. 私は青年団に入っていた。朝鮮人の青年たちとの交流も盛んで、私は朝鮮人の娘さんたちから朝鮮の唄を朝鮮語で習った。いまでも30曲は歌える。
  19. 青年団のころ郡内に近いマンナムニ(望南里か?)に出掛けて同じ青年団の朝鮮人の青年たちに日本語を教えていた。「オハヨーゴザイマス」が「オアヨーコサイマス」となってしまう。これを直すのが大変だったのを覚えている。
  20. 当時は20歳になると兵隊にとられることが分かっていた。「兵隊にとられたら終わり」だから、20歳までは楽しく過ごそうとしていた。
  21. 二及からの移民団が住んだ「伊予村」も埋立地だった。「朝日町」と呼ぶこともあった。
  22. 伊予村では井戸は各戸に打ち抜きをしていた。海に近いところだが塩からくは無かった。
  23. 私の家は六畳と土間、豆腐を製造するために家の裏側に一間建て増ししていた。
  24. 20歳になり兵隊にとられ、済州島の守備隊に配属された。23人の部下は朝鮮人だった。私が朝鮮語が出来る殻だろう。朝鮮兵は土方であった。兵隊が移動するための壕を掘る仕事などだ。
  25. 昭和20年終戦を迎え、9月木浦港まで輸送船で渡った。
  26. 9月に木浦で香川と云う人が日本人を船に乗せて帰国するんだが船員として手伝ってくれないか、ともちかけてきたので其の舟で帰ることにした。
  27. 船は三本マストのウタセ舟っだった。櫓が一本ありこれを漕ぐのが私の仕事だ。食糧・水はお客が持参したものを使った。
  28. 航路を間違えたり、嵐にあったりして12月になってやっと三崎(現・愛媛県西宇和郡伊方町三崎)にたどり着いた。三日で帰るはずが三ヶ月かかったのだった。三崎に着いたときは船は殆んど壊れてしまっており、木でできているからやっと浮かんでいたような状態だった。帆柱もおれ櫓もなくなくなっていた。命からがらの帰国だった。



浜田政夫氏談和泉政夫氏談

  1. 日本学校は小高いところにあった。
  2. 伊予村は埋立地にあったが埋立地の一部(西端)は未完成のままだった。
  3. 日本人学校(尋常高等小学校)には朝鮮人はいなかった
  4. 国語は「ハナ ハト マメ マス」だった。
  5. カタカナは「ノ メ ク タ」と習った。
  6. 祖父政吉は酒が好きだった。二及で世話役をやっていた。
  7. 朝鮮へは和泉政吉の家族と父九十松の姉婿植田の家族で帆前船で乗り出した。まぎりで航行した。
  8. 船には長持や機織機を積んでいた。
  9. 祖父政吉がよく「内地からキタバリ一つで帆前船で渡って来た」と語っていた。
  10. 渡韓前政吉が「このままでは世帯がやって行けん」と語っていた。
  11. 伊予村での主食は麦、サツマイモだった。
  12. 日本人はサツマイモを蒸して食したが、朝鮮人はナマで食べていた。これが結構うまかった。
  13. 少し離れたところにカマグミという集落があった。そこは三崎村の出身の定住地だった。カマグミでは漁業が中心だった。
  14. 伊予村の村長は浜田範一だった。
  15. 政吉は莞島で死去した。