2007年月日
海南新聞
1909(明治42)年
1月14日
老馬新聞

1909(明治42)年1月14日
塩崎誓月著(最新の韓半島一節) 

鴨緑江の筏
▲中学教科書に編入さる▲
本社主筆塩崎誓月氏が明治三十九年に著述したる「最新之韓半島」は当時比較的好評を博したれ共 本紙紙上にては未だ嘗て之を紹介したることなかりしが該書中の一節「鴨緑江の筏」は東京国学院編纂吉田弘文舘発行中等国文読本((文部省検定済中学校国語科教科書))四の巻に編入されあると発見したれば参考として左に之を転載すべし 因みに(中略)・・・

第十五 鴨緑江の筏


鴨緑江の森林は、広大無辺と称せらる、其の樹木の種類頗る多く、赤松、杉松、黄白松、落葉松、紅鱗松、黄鱗松、柞(ははそ)、楡、檀木、胡桃、楊、楓等を産し、就中赤松、黄鱗松は材木として最も多く伐採せらる丶が如し。
毎年三四月の交、即ち解氷期に至れば、此等の材木を伐採し、八九月の雨期に際して鴨緑江の出水するに乗じ、組み合せて筏と為し、下流へ押し出だすなり、一個の筏は、材木二百五十本を以て組み合するを普通とす。
材木には円材と、角材とあり、円材は該して細長く、角材は多く巨材より取れども、ま丶木口の経二尺乃至三尺にして、長さ四丈五六尺に達する大丸太もあり。又切口七八寸角にして、長さ八尺をを越江ざる角材もあるなり。いづれも切口尺角乃至尺経にして、長さ八尺に相当するものを一連と称し之を単位として体積を計る、之を屯数に換算する時は、三連を以て一屯とす。
鴨緑江の森林は、元来官林なれば、入斧税を納めされば、伐採することを得ず、之を納めたるものは、その材木を自己の所有とし、銘字を打ちてその証と為す、この一人の銘字あるを集めたる筏を、正字号といふ、されど彼処の谷よりも、此処の山よりも、処定めず筏を出すことなれば、其の混交を防ぐこと甚困難にして、少しく下流にいたれば、自然所有者の区々たる材木を取合せて、一個の筏となすに至る。之を雑事号といふ、筏の多くは此の類なり
上流より押し出さる丶材木は、往々途中にて所有者と何の関係もなき者に掠められて筏を造らる丶ことあり。所有者上流より辿り来りて、その盗まれたるを発見するときは、直に其の筏を切り崩して、取り返すことを得れども、愈々下流に到着して揚陸するまでには、種々なる困難を覚悟せざる可らず、其の最も危険なるは、馬賊の脅迫にして、若し其の求むる所の巨額の税金を拒むときは直に人命を絶ちて、其の筏を奪掠するを習とし、其の勢力強大にして、到底之に反抗し難し。
かく種々なる煩累と危険とを冒して、辛くも江口に下りたる筏は、更に茲域と、安東県とにて税金を納付して、始めて其の所有権を確認せらる、その市場は大東溝を主とし。安東県之に次ぎ、芝罘(このサイトの「鉄道附属地・新市街・避暑地・公使館区域・貿易圏・非公認共同租界」に安東県、芝罘などの地図がある)、天津、営口、旅順、大連等に運搬され、主として南満州の需用に応ずるなり。其の取引は頗る盛にして、之が為に毎年、芝罘、天津等諸処より、安東県及大東溝に出張する承認は、実に数百人の多きに達すといふ。これ蓋し支那内地は、樹木の大なるもの極めて稀少にして、材木の供給は一に之を一部の森林地方に仰がざるを得ざるが故なり。
(塩崎誓月著 最近の韓半島に拠る)