2007年月日
海南新聞
明治41年
12月5日~12日
老馬新聞

1908(明治41)年12月5日
●伊藤公の移民談
伊藤公の米国通信員に談りたる移民談にして近着の米国新聞に見えたる所なり
▲日本の移民問題 は世間に伝へらる丶如き大問題にはあらず 日本の人口が年々五十万ずつ増殖し往くは事実なるも 目下政府に何等の憂慮を抱かしむる程人口過剰にあらず 去れば日本政府が移民を海外に送ると云ふは虚説なり 又日本政府が過剰の人口に対し殖民地発見の必要に面し居ると云ふも事実ならず
▲東洋拓殖会社 発起者は多数の日本移民が盛んに渡韓することと予想し居れるが如きも 予は前段の理由をこの会社にも適用して決して多数の移民が渡韓すると心事得ず
▲他の移民 殊に資産を造らんとて海外に渡航する青年に付いては 渠等が米国及布哇を目指すは蓋し最も自然の勢なり 何となれば即時に手に入るべき高賃金の好餌は渠等を誘へばなり 之に加ふるに学問の刺激物あり 然ども日本政府は移民問題の米国政府に与へし面倒を察して其意を諒し米国移住志望者に旅行券を授くることを実際的に中止せり
▲外交紛議 然れども米国及び布哇移民を制すべき最も簡単なる手段は日本其他の移民に高き賃金を与へることを止むるに在り 各政府に労働を制限すべき権利を保留せしめたる現条約の箇条は将来新条約談判の節外交紛糾を惹起せしむることなきかと云ふものあるも決して而らず 否各固政府が此権利を保留するは至当にして米国の移民制限は米政府の権利として日本は之を承諾し 而して又何国に対此しても同断なり

1908(明治41)年12月6日
▲北韓及沿海州視察 西宇和郡三瓶町岩宮鹿蔵氏は従来西朝鮮視察中なりしが尚進んで北韓及沿海州の漁業を視察する由

1908(明治41)年12月9日
韓京逭(ママ)((其九))
○(オンドル紹介 省略)

1908(明治41)年12月11日
水産界の温泉郡((八)) 赤 青 生
▲瀬戸内海中唯一の「ラツコ」「オツトセイ」業
郡内の遠海出漁者と云ふたら三年前迄は安居島の手繰網業者の団体が活洲業を兼ねて韓海に出漁するものが十二三隻の外何等見るべきものなかりしも 昨年来は新に韓海や関東州に遠征を試むものが新刈屋や垣生や又野忽那に続出して頗る好況を呈しつ丶あるが 此韓海や関東州の漁撈以外に一大異彩を放つたのは県内は愚か瀬戸内海中でも他に類例を見ず 率先して太平洋方面から「ベイリング」海峡の方面に向つて「ラツコ」「オツトセイ」業の為に大々的飛躍をなしつ丶あるものは 興居島の住人宮田兵吉氏の資本投下の為に組織したる一行の壮挙である
 業は船体船具や漁具の固定資本七千余円と船員給やら食費を合して七千円を投じて昨四十年の創始であるが二十六屯余の帆船小富士丸を艤装し船長兼漁労長として同島出身の住本虎次郎氏指揮の下に漁猟手十一人、漁猟夫四人と都合十六人で端艇
(ボート)隻を操縦して三月の初旬より十月の下旬迄の間に猟に得たる「ラツコ」が廿二頭で価格が一万四千三百円((一頭六百五十円替))「オツトセイ」が八十五頭で価格が三千五百七十円((一頭十二円替))と云ふ巨額で初年の事業としては相当の利潤を見たが倫敦に於ける「ラツコ」相場の予期の額に達せざりしより 本年は主たる漁獲物は「オツトセイ」に顛倒して事業を継続したが 是又頗る好成績を収めて「オツトセイ」が二百六十二頭 「ラツコ」十四頭で昨年の値段により打算すれば二万余円と云ふ算用で資本主を始め船員等は喜悦満面の状であつて偉大の利益を占めたるにより益々発展の要を感じて 明年は更に一隻を増加せんとて三四のものと合資組織で三倍大の九十四屯の帆船を造船中で進水式も目睫の間に迫まりいまや諸般の計画中とのことである
 余輩は此壮挙の前途益々健全の発達を期待すると共に 一面に於て地方出身の遠洋漁業に従事すべき漁獲職員の養成が焦眉の急なることろを感ずるのである 蓋し興居島に於ける斯業の発達も資本主たる宮田氏の進取の気象に富みて義侠に待つもの多大なりとは言へ  之が局に当りたる漁撈長墨だしの同島出身で而かも多年の苦心惨憺より成れる実験は事業をして蹉跌なからしめたもので 此功績は真に没却すべからざるものであらう
 聞くところによれば明年の新造船は乗組員廿七八人中の十人位は該島より応募者を得るとのことであるが 是等の輩より第二の住本氏の出さんことを切望して止まぬのである

1908(明治41)年12月12日
●鴨緑江架橋工事
当局者の説明に依れば満韓鉄道を連絡すべき鴨緑江の架橋工事は四十二年度より着手 費額は約二百万円なり