2007年月日
海南新聞
明治41年
11月18日〜29日
老馬新聞

1908(明治41)年11月18日
●韓国治外法権
韓国治外法権撤去の事は伊藤統監最後の事業なるやに伝へらる丶も 曩に米国が工業所有権に関する裁判権の一部を我理事庁に一任したる際 政府が英仏両国に対して同様の申込をなしたるに両国は拒絶せし次第ことあり 裁判権一部の治外制度を撤去して韓国に於る我法権に委することすら一朝にして行はれ難き形勢なれば 韓国の裁判制度を改良し純然たる法権の回復を企つるは年月の問題にして 統監は我外交の手段により韓国に於ける諸外国の治外法権撤去を企てたれども列国これに応ぜざるより 今は韓国の現制度を改良し多年の後法権の回復を求むるの外なかるべしと 


1908(明治41)年11月18日
●東洋拓殖会社職員
東洋拓殖会社の株式募集も既に結了し 着々成立を急ぎつ丶あるが 十四日総裁以下左の如く決定し御裁可直に発表すること丶なれり
総裁 陸軍中将男爵 宇佐川一正
副総裁 前内務次官 吉原三郎
同    韓国前支度大臣 閔永綺
理事  農学博士 本田幸介
同           嶺八郎
今一名の理事は首席たる筈にて松崎蔵之助 美濃部俊吉両氏の内より選任するはずなり

●松崎蔵之助:1919年(大正8年) 東京帝大経済学部教授就任。帝国学士院賞受賞、他に日本銀行設立委員、東洋拓殖会社創立委員 ●美濃部俊吉:札幌グランドホテルの初代社長、北海道拓殖銀行第2代頭取。

1908(明治41)年11月19日
韓国統治の第二期
 東洋拓殖会社の株式募集は、予想以上の好景気を呈し、十倍より二十倍となり更に三十倍となり 而して遂に三十五倍に上るに至つては、豈に驚くべからずや。一般経済社会の景気未だ旧態に服せずムシロ萎微不振の今日、東洋拓殖会社のみ独り創業早々斯かる盛運を示す。祝着至極の次第なり。
 拓殖会社は云ふ迄もなく、刻下韓国統治の必要機関にして向後日韓両国の親善を維持し、韓国を富国強兵の域に進ましむるには、最も授かつて力あるべきなり。
 拓殖会社の韓国経営に於ける関係は満鉄会社の満州経営の夫れに於けるよりも一層必要にして、全たく半官半民の性質を有し、他の一般営利会社と異なり私欲意外特殊の必要と目的を有すること今更云ふ迄もなし。
 今回の株式募集が斯かる良好の成績を挙げ得たるもの、素より当事者の熱心なる勧誘と日韓両国米作の豊穣、国債償還、貿易の順潮等に由るべしと雖、主として拓殖会社本来の性質が両国識者の間に×認せられたる反響たるを思へば、尚更ら慶賀の念禁じ得ざるものあるを覚ゆ。
 殊に韓国側に於ては、我経営とし云へば百事百物殆ど済度すべからざる猜疑心を以て迎へ、同会社の設立に対してもムシロ反対の態度を仄めかしたる位なりしに、一たび創立委員の諸氏が親しく来京の上、同会社経営に対する我が朝野至誠の或る所を看取して、帰来厥の真相を伝ふるや、韓国朝野の態度俄然一変、能く同社の本領を解得したる為め、韓国皇室はじめ主なる官民競ふて株式募集に応ずるの盛況を見たるは、単に同社前途の為賀すべきことのみならず、日韓今後の国交上最も祝すべき現象たり。蓋し韓国上下の我国に対する従来の猜疑は爾後事毎につけ、さながら春の雪の旭にに会へるが如く、次第に解消し行くこと疑ひなければなり。
 
 かくて韓国の統治も今也第二期に入れるなり。武力を以て威圧し温言を用て懐柔する所謂第一期の時代漸く過ぎ、之れより統治の実果を収むべき第二期に入る。統治の真の舞台は今より幕開きと云ふべきなり。而して、拓殖会社は此の舞台に於ける最も重要なる花形役者と称して不可なし。任や重くして大。
 就て一言したきは、余りに出発当初の上景気に、調子づき、徒に規模を拡張せざる一事 別して内部の組織を余りに複雑にし無用の形式に労力と経費を空費せざる一点なり。殷鑑遠からず 満鉄会社の現状は如何。株式募集当時の人気に引換へ、近時満鉄に対する世上の声価頓に地を払い、兎角の悪評流布せっる丶と共に、前途の成績に対し杞憂を抱くものすら生ずるに至る。瀬金武の風評の如き到底信を措くに足らずとするも、煙なくして影立たず、同社内部の組織が聊か誇大に失し人多くして実績挙がらず、会社側が揚言する如く有利の状態に在らざるは事実なるに似たり。吾人は拓殖会社の経営者諸氏が、只だ終始至誠を以て殊に従ひ、今日の盛況を永遠に持続せんことを希望してやまざる也((如風生))

1908(明治41)年11月29日
韓京通信
((其八))
○韓国の寒気、
○三寒四温(省略)
○遮莫(さもあらばあれ)、韓国の冬の夜の如く荘厳なるは非ず。大気、水を含まざれば紺碧の空いよいよ高きに、星光、燦として輝くところ、楊柳一葉風なきに婆娑と落つ、夜気空寂、銀漢無声、清寒溢る丶の趣有之候。静に身を此の清浄の乾坤に措く時、法悦おのづから涙下るを覚え候。(十一月廿二日))