2007年月日
海南新聞
明治41年
11月12日-18日
老馬新聞

1908(明治41)年11月12日
●本県の拓殖株
本県に於ける拓殖株の募集は五十二銀行に於て専ら取り扱ひたるが十日〆切の結果
一万一千〇八十二株
応募あり内松山地方六千株にして次は南予に多く東予に至つて少数なりしと 


1908(明治41)年11月14日
●伊藤統監の進退
▲伊藤統監 
は今春京城の某集会に於て其の辞意を漏らせるより 在韓日本人は統監の帰朝を送るに最後の別意を以てしたるも 帰朝後種々の事情は容易に統監の更迭を許さず再び京城に帰ること丶なりたるが統監は今尚ほ依然として辞任の意あるもの丶如し 而して
▲更迭×悩の事情
に就いては世に皮相の見を以つて伊藤公の心事を揣摩する者少からざるも、実は昨年日韓新協約成立後伊藤公が統監府の組織を改め、自ら曽根子を抜擢して、徐ろに事故の後を承けしめんと試みたるに拘はらず、実験上曽根子を以て己れに代ふるの殆んど不可能なるを発見せるに職由するもの丶如く、殊に韓国に於ける文武官の統一は伊藤公自身と雖も、常に難んずる所にして、一朝曽根子を以て統監たらしめん乎、忽ち
▲容易ならぬ事態
に陥らん虞あり、而も文武統一の組織を改めて、全く之を別立せしむるに至らば、陰険老獪なる韓廷と稍もすれば、矯傲制すべからざんとする軍隊との間に立つて、対韓政策の効果を挙ぐる能はざるべく、旁々伊藤公の辞任を許さず、而して此等の事情は山県公桂首相の充分諒とせる所にして、殊に桂首相は此等の事情に就き嘗て陛下に内奏せるに、陛下には気の毒ながら当分伊藤を煩はすの外なしと仰せありたるやに漏れ承はる。斯て伊藤山県桂三老の間には
▲一種の黙契
成立せるもの丶如く、伊藤公は今期議会中に十分対韓政策の整理を行ひ、其の結果を議会に報告して一段落を告げ、議会閉会と共に寺内陸相を以て統監に任じ、公は曽根子と共にその職を辞し、予ねての風説通り枢密院議長として静に老躯の安養を計るべしと伊藤公側の人々は推測し居れり

1908(明治41)年11月14日
●拓殖株の盛況 十二日午後発
拓殖株の応募数三十五倍に達したり

1908(明治41)年11月14日
●神松名組合解散
西宇和郡神松名村神松名同盟組合は神松名出漁信用組合組織されしを以て今回解散したりといふ

1908(明治41)年11月15日
●韓海沿岸を警戒す
過般来韓海沿岸江華島に海賊数百蜂起し我陸戦隊の為に鎮定されたるが 同地沿岸一帯は毎年歳末になるに従ひて沿岸航行の貨物搭載船舶頻繁なるに乗じ海賊出没して船舶に危害を与へ載貨を略奪する虞あるを以て我警備艦千早外水雷艇数隻は引続き警戒をなすべしといふ

1908(明治41)年11月18日
韓京通信 其七
(郊外散策の話 省略)