2007年4月7日
旧助羅のコレラと
魚島の漁師
老馬新聞

1902(明治35)年には日本と韓国にコレラが発生した。日本では「(同年)8・− 愛媛県今治町にコレラ流行、西日本一帯に蔓延(『年表日本歴史6』筑摩書房)した。韓国でもコレラが猛威を奮い多数の死者を出した。
 旧助羅水域に通漁していた日本人漁夫もコレラを発病し多数の死者を出したのだが、同水域に出漁していた魚島漁民も悲惨な状況に置かれた。

 明治36年1月に発行された『朝鮮海通漁組合聯合会報 第4号』に山口諌男巡邏視察員が
入佐清静(巨済島の移住漁村「入佐村」指導者)会長に提出した報告が収められている。この報告によってその顛末を克明に知ることができる。またこの資料は韓海通漁に参加していた人たちの年齢がうかがえる資料にもなっている。これによると13歳、14歳の少年も参加していたのであった。さらに各組の員数も31名から35名と知れる。日本人漁師たちの旧助羅における納屋の位置もおおよそこれで分かる。次ぎの引用は私が現代語訳したものである。


巨済島旧助羅出漁の本邦民間にコレラ病発生に関する報告

巨済島及び漆川島沿岸視察(略

旧助羅のコレラ病発見

 明治35年9月9日朝、漆川島を出発し 午後、巨済島長承浦着 ここで去る5日暁の暴風で船底を破壊したイワシ網随属船を調査した 10日早朝、知世浦に移動、風が強いので陸路で旧助羅に行くことにし 愛甲巡査、並川医と共に金通訳を従え午前8時知世浦を出発した 小さな峠を越えて海岸の小さな洞(集落)に出た 旧助羅はここから一里ほど南方にある 地元の人物に旧助羅に日本人のイワシ網があるか尋ねてみたところ 

「例年よりも少ないが 納屋が3、4棟あり 十数日前から悪病が発生して 死者十数人 病人がまた十数人いる 壮健な者も漁業を休んでいる その悪病を恐れ 納屋に近づかないのは勿論 納屋に近い旧助羅にさえ行くものはない 旧助羅からこの洞に入ろうとするものも固く拒否して集落ないに入れないようにしている 全く彼我洞民の往来を絶ち 日本漁船などは たとえ給水のために来る者でも 海岸に近づけず直ちに追い払っている」

という。我々一行は意外な事態に驚き これはひょっとして韓人特性の誇張癖でもって我々を驚かしているのではないかと疑い さらに外の二三人の洞民に尋ねてみたが 皆同じ答えをする そこでこれは間違いなく伝染病に相違ないと確信し 直ちに金通訳を知世浦に帰し 巡邏船を旧助羅に急行させた 一行がその洞を発ち旧助羅の海岸に到着すると 二丁(約200メートル)ほど沖に日本人イワシ網が二隻停泊していた 我々は手を振ってこれを招いた 舟が近づいたとき病人はいないか尋ねたところみな健康だという そこで船頭を上陸させここに出漁中の日本人イワシ網船での病状を聞いたところやはり先ほどの小洞の韓国人から聞いた話と同じで つぎのように語った

「本年の出漁者五組なかで20日ほど前より 四組までコレラ病を発生し 多数の死亡と患者が出ている その数は各納屋の往来を絶っているため詳細が分からないが 病勢は激烈で 発病後数時間で死亡しているようだ 私達の組は幸いに一名の発病者も出ていないが 網船は納屋と遠く離れて往来を絶っているため 漁業を休んでいる」

 そこで後ほど船員の健康診断を実施すると伝えて船頭を船に帰し 我々一行は旧助羅の日本主人(問屋)の姜先達の家に入った 姜先達による病気の説明は詳細であったが その死亡者、患者数については 納屋と往来していないので確かな話が聞けない 姜先達はひょっとすると死亡者は四五人だろうかというが確信は持てない そして旧助羅洞民の日本人出漁者に対する感情は 平素日本人出漁者のおかげで少なからず利益を得つつあるので 今回の悪疫発生については 単に納屋と洞内の交通を遮断するだけにして 強いて納屋の撤去までは要求しない ということであったので 一行もいささか安心したのであった  こうして病気の概況を知ることができたので一行は先ほどの網船におもむき健康診断を実施した 総員16名異常はなかった そのときちょうど正午 おりしも巡邏船が知世浦から入港してきた

コレラ病状況

一行は巡邏船に帰り 着物を着替えて十分消毒を施し 消毒薬を用意して上陸 各納屋を巡視し 納屋主に対し一々厳重に取調べを実施したところ 驚くべし これまで全く知られていなかった旧助羅のコレラ病は実に猛烈を極めていたのであった

 

コレラ病死亡者及び患者(9月10日)調べ
愛媛県越智郡魚島村964番地
イワシ網業 小泉和太郎組(総員31人)
死亡者 4名
8月19日発病
30日夜死亡
愛媛県越智郡魚島村
横×(井か)一松 18歳
8月31日発病
9月4日死亡
同県宇摩郡川之江村
松本貞吉 24歳
9月5日午前五時発病
午後同日七時半死亡
同県越智軍魚島村
青野千代吉 17歳
9月6日朝発病
同日午後二時死亡
同魚島村
穴蔵乙吉 13歳
※この調査後9月12日になって発生した新患者である
9月11日発生
その後回復
同県越智郡水島村92番地
赤松正則 26歳
患者 4名
8月20日発病
類似コレラ
同魚島村
泉原愛次郎 14歳
8月31日発病
類似コレラ
同県川之江村
本村版次 18歳
8月31日発病
類似コレラ
同県越智郡湯気(弓削か)村
田阪伊代吉 50歳
9月4日発病
類似コレラ
同県同郡魚島村
坂井庄太郎 18歳
愛媛県越智郡魚島村56番地
イワシ網業 竹部音吉組(総員30名)
死者 2名
9月1日午後12時発病
2日午後5時死亡
同魚島村
五十嵐安吉 36歳
9月7日午前八時発病
9日午後3時死亡
同魚島村
深見縫次郎 27歳
患者 3名
9月2日発病
類似コレラ
同魚島村
濱本鹿太郎 19歳
9月3日発病
類似コレラ
同魚島村
深見喜三郎 14歳
愛媛県越智郡魚島村日吉達次郎代理
イワシ網業 横井辻松組(総員31名)
死亡者 3名
9月2日発病
5日夜死亡
同魚島村
小西千太郎 33歳
9月3日発病
5日夜死亡
同魚島村
濱本福助 54歳
9月4日発病
6日夜死亡
同魚島村
大西大西重太郎 35歳
患者 1名
9月7日発病
真症コレラ
同魚島村
末広亀蔵 20歳
愛媛県越智郡魚島村
イワシ網業 大林善作(総員32名)
患者 2名
9月4日発病
類似コレラ
同魚島村
深見金吉 50歳
9月5日発病
類似コレラ
広島県沼隈郡百島村
村上寛太郎 17歳
愛媛県越智郡魚島村
イワシ網業 横井庄平組(35名)
死亡者 なし
患者 なし
以上の如く 8月17日初発以来9月10日までの死亡者9名、患者10名である。
なお
※これからみると、山口視察員が旧助羅に到着したとき沖に停泊していたイワシ漁船は
死亡者、患者ともに発生していなかった横井庄平組であるかもしれない。


納屋所地の位置

※参考写真


巨済島の東に東南に開く大きな湾がある。それが旧助羅湾である。湾の北奥に小さな半島が突出し、旧助羅湾を東西に別けている。旧助羅は半島の東側平坦のところにあり東湾に面している。人家百余戸、人口500を越える。

日本人漁師たちの納屋は半島西側一帯の砂浜に並んで建てられ、旧助羅に一番近いもので旧助羅から300メートル、最も遠いもので1200〜1300メートル離れていた。現在ある納屋は5棟、患者小屋5棟、計10棟である。

病気発生以来の状況

 8月9日初めて病気が発生したときは、人々は何の病気か分からなかったが、次第に病勢が猛烈を極め、倒れるものが続出するに及んでこれがコレラ病であること知り、人々は恐怖に捕らわれ、船にいるものは自然に納屋との交通を絶ち、陸上の健康者は納屋に集まり もち少しでも下痢を催したものは容赦なく患者小屋へ隔離し、納屋の内外には「しめ縄」を張り回し。屋上に御幣を立て、昼夜石油缶をたたき、ほら貝を吹き、念仏を唱え、一意専心に病毒に感染しないように祈っていた。

 その愚かさは哀れむべきであるが、彼らは病勢が余りに激烈であるため恐怖の絶頂に達しており、しかも近くには医者もおらず薬も無かったのであるから、身をなげうって神に祈るしかなかったのである。死亡者は悉く火葬に付したが中には全く焼けてしまって遺骨さえ納めることが出来ない場合もあった。

 このように実に悲惨な状況であったが、さらに悲惨だったのは竹部音吉組の深見縫次郎であった。

 縫次郎は9月7日発病し横井庄平組に雇われている実兄の藤本勇吉に看病を依頼したのだが、雇主はたとえ兄弟といっても伝染病であるからいい加減な判断で派遣することは出来たいと拒絶した。本人もまたインキンタムシに悩んでいるので看病にいけないと固く断った。そこで竹部組は無巳
(この付近の地名らしい)組のものに看病させた。しかしながら、同月9日についに死亡したので、実兄さえ顧みなかったものを他人が世話をする義務はないといって火葬もしないでそのまま付近の海岸に埋めてしまった。

 我々一行は雇い主にその不都合を責め、すぐに発掘して火葬せよ、と命じたところ、竹部組の雇い人は一人もこの命に応ずるものが居らず、もし実兄が来ればその手伝いくらいはしようと言い一行の説諭に応ずる気配がない。そこで横井庄平と実兄に対しねんごろに説諭したところ、雇い主はすぐに承諾したのだが、実兄の藤本はよほど病気を恐れていると見えて

「弟の死亡は致し方ないが、自分には郷里に老母がいる。自分がもし病毒に感染し不幸にして倒れるようなことがあると老母を養うものがいなくなる」

と言ってどうしても従おうとしない。
 そして、藤本の健康診断をしてみると身体の調子がよくない。こんな者に無理やり火葬に行かせると却って神経より感染発病する恐れがあるので藤本は使わないことに決した。

 そこで、竹部組の水夫一同を集めて諄々と説諭して、命令的に抽選で5人と選抜し更に健康診断を実施し、最健康者三名を選び十分消毒をして11日未明縫次郎の遺体を発掘して火葬させた。

大隔離

患者があらたに発生しコレラ病の勢いはさらに続く恐れがあるので、我々一行は急ぎ命令を発して、陸上の納屋は番人1名××、病人等だけを残し、健康者は総て漁船に移した。

馬山帰航(略)

防疫部設置(略)

防疫部開始後の状況


旧助羅におけるコレラ病は本会巡邏船が発見したころは既に病勢も山を越えやや衰退の時期であったので、防疫部を開始した後の新患者は1名に過ぎず、それまでの患者の中から新たに出た死者は、小泉組に9月11日に1名、同16日に1名、同17日竹部組に1名、同24日に横井組に1名、都合4名の死亡者を出したにとどまり、その他は次第に快方に向かい、30日をもって旧助羅のコレラ病は全く撲滅された。

防疫部閉鎖撤退(本文略)

コレラ病発生以来全治までの患者経過は次ぎの通りである。

事業主姓名 健康者 患者
(全治)
患者
(死亡)
逃亡 総人員 残人員
小泉和太郎組 20人 3人 6人 3人 33人 24人
竹部音吉 22人 2人 4人 4人 32人 24人
大林善作組 31人 2人 0人 1人 33人 32人
横井辻松組 29名 2名 3名 0名 34名 31名
横井庄平組 32名 0名 0名 0名 32名 32名
合計 134名 9名 13名 8名 164名 143名
総人員は5組164名。うち患者22名、13名死亡、9名全治。逃亡8名、残留者143名である。