2007年4月6日
『魚島村史』を読む
老馬新聞

『魚島村史』には次のような内容が続く。

1)日本人が大挙して韓海に押し寄せた理由

『魚島村史』は瀬戸内海各県の漁民をはじめ多くの日本人漁民が韓海に進出した理由を次ぎのように分析している。

  1. 明治になって日本の人口、特に漁村の人口が激増した。そこで政府は困窮漁民対策として海外出漁を奨励した。
  2. 当時韓国人は魚を多く食する習慣がなく、従って大漁に漁獲するための舟や技術が無かったので、韓海海域では魚が湧いていた。

 
 韓海通漁のプッシュ要因とプル要因を指摘したこの二点はおおよそうなづけるのであるが、明治期の「漁村人口の激増」の実態と、韓国人の「当時の食文化」については後日確かめてみる必要があると思う。

2)韓国漁民との紛争

 『魚島村史』の優れている点の一つは、韓海に進出した魚島漁民と進出先の韓国人漁民の対立紛争が正直に(?)書かれている点である。外国の漁場や土地に進出するのであるから当然予想される事態だが今まで文献や聞き取りでは出たことがなかった。

 『魚島村史』には「朝鮮出漁の父 有永長治郎」と題する海南新聞掲載の投稿記事が紹介されている。それによるとおおよそ次ぎのような経過があったようだ。

  1. 1891(明治24)年8月有永長治郎が韓海に舟を出した。
  2. 無事釜山に到着し、巨済島に渡り、旧助羅湾の土地に基地を置き漁業を試みた。
  3. 予想以上の漁獲があって乗組員一同大喜びし韓海通漁の成功を確信した。
  4. ところがまもなく旧助羅の住民の強い抗議に遭遇した。
  5. 住民たちは「吾人ノ到来ハ彼等ノ漁場ヲ蹂躙シテ領土ヲ略奪スルモノ丶如ク誤解」していた。
  6. 住民達は口頭での抗議だけでなく、日本人に投石する者もあった。また日本人に遇わないよう山に逃げ込む者もいた。
  7. 旧助羅湾での停泊が三日目になるのに、旧助羅の住民は日本人と一言も言葉を交わそうとしない。それで日本人の来意を伝えることも出来ない。
  8. 仕方なく、一度旧助羅浦に上陸して、薪炭の供給を申し入れたが住民たちは頑として受け入れなかった。
  9. そこでやむなく海上に戻り、夜間地元民が熟睡しているころに上陸して、井戸の水を汲み、さらに韓国人の人家から半里ほど離れた無人の砂浜に九尺二間(全部で六畳)の小屋を建てた。ここを拠点として12ヶ月間漁業に従業することとした。
  10. 明治24年といえば日本人も鑑札を受ければ韓海に於ける漁業を営めることになっていたが、小屋掛けとなると「事前によく根回しができてないと」大変である。
  11. こんなやり方を1893年まで繰り返していた。

  12. 1894(明治28)年日清戦争勃発「日本軍の連戦連勝で国内が沸いていたころ」、魚島の横井庄平たちがこの機会に一挙に問題を解決してしまおうと覚悟して巨済島・旧助羅に乗り込み砂浜に小屋掛けをした。
  13. するとまもなく住民たちが旧助羅の村長を先頭に立てて押しかけてきて、激しく抗議してきた。
  14. 役人の見解だといって「韓海での日本人の漁業は双方の条約で認められているが、小屋掛けは絶対に認められないから撤去せよ。撤去しないのなら燃やしてしまうぞ」と迫ってきた。
  15. こうして34、5人の韓国人が竹槍や筵旗を持って抗議を続けるので、涙を流しながら懸命に説得を試みる一方、釜山の領事館に事情を訴えた。
  16. 領事館は日本人の訴えに同情し、川上領事自ら14,5里はなれた旧助羅へ夜を徹して急行、現地の韓国人たちに誠意を持って説得に当った。
  17. このとき通訳に当った現地の韓国人・盧先達(「先達」は科挙に及第してまだ官職に就かない人)が誠意をもって住民を説得したのでその場は収まった。
  18. 住民達は納得したわけではなく、仲介に当った盧先達とその姪を売国奴と訴えその結果盧先達たちは獄につながれることとなった。
  19. 魚島の漁民たちは盧先達を救出するべく八方手を尽したがかなわなかった。
  20. ところがある日、住民が砂浜に干していた煮干イワシを手にしたのを見つけたので、魚島漁民達はこれを取り押さえ縄をかけた。
  21. 「釜山の日本領事館に引き渡してやるぞと威嚇したところ、彼等は平身低頭して罪を認めたのみならず、其親族や村の有力者まで来て泣訴し」た。
  22. そこで「役所へ行って盧先達達の無実を訴え彼らを取り戻したら吾々もこの者たちを許してもいい」と伝えた。すると住民達がかわるがわる役所を訪れついに二人の赦免が実現した。
  23. この事件をきっかけに魚島村漁民と現地住民の間の紛争が解決し兄弟として付き合うこととなり、両者はその証明書を作った。
  24. 魚島漁民側だした証明書には次のような内容が認められていた。以下『魚島村史』より引用
    右証明の段は、大日本愛媛県魚島村日吉重太郎・日吉辰次郎・横井米治・横井庄平・大林善作・大林新平らと、本洞(旧助羅)人民は互に協力して漁業に携わり、幾百年も兄弟の如く仲むつまじく暮らすようになったと雖も、若し両者の間に相違があった場合は、(暴力沙汰ではなく)裁判によって決着し、結果は即ち公庭で報告することを日韓人が約束したので、その謄本をここに公表する。
    明治四拾二年五月二日

    左開

    一 往来で婦人をからかったり、恥をかかすようなことをするなかれ
    一 漁業をお互い協力して行うこと
    一 村なかで、服を脱いで(ふんどし姿で)行歩することなかれ
    一 日韓人が争うことなかれ
    一 牛犬に投石し、害傷を与えることなかれ

    大日本愛媛県越智郡魚島村
    大林新平 丸判
    大林善作 丸判
    横井庄平 角判
    横井米治 角判
    日吉辰次郎
    日吉重太郎
    御手洗道徳

    項里洞中殿・


    ※「項里洞」は旧助羅の異名

以上が『魚島村史』に書かれている魚島漁民と旧助羅住民の紛争の経過である。魚島漁民側の粗暴な振舞が住民側から厳しく諌められている。この「証明書」の日付が明治42年5月2日となっているので12の「1894(明治28)年日清戦争勃発云々」は何かの間違いではないだろうか。

 『魚島村史』はこれだけでは満足しなかった。この紛争が韓国側ではどう見られているか、現地の韓国人に依頼して調査してもらったのである。その調査結果の紹介は割愛するが、報告書に上記経過の19.20,21,22がなく「日本領事の尽力で盧先達の無罪放免が実現した」をあるくらいで殆んど一致している。なおこの報告書では「盧先達と姪」ではなく「甥」となっている。又魚島漁民が上陸したところが、旧助羅の沖合い1500メートルのところにある「内島(ネード)」であることが記されている。