前回は『魚島村史』のうち瀬戸内海魚島周辺での「漁業紛争」を見た。この愛媛、広島、香川三県の漁民の漁場紛争は、当時の漁村の深刻な人口過剰や漁民の窮乏化を背景にしてを生まれこと。この事件が「明治政府に強い衝撃を与え」、ひいては遠洋漁業や韓国海域への出漁へのプッシュ要因となった、といった内容だった。今回はいよいよ「朝鮮出漁」に入りたい。『魚島村史』掲載の川井家継・横井 茂両氏の文章から書き抜いてみる。

 (1)『朝鮮海域への日本人の出漁に関連する法制の変遷は次ぎのようだった。※( )内は私の補充。

  1. 明治16(1883)年までの韓国水域での日本人の漁獲は密漁だった。
  2. 明治16年に日朝貿易規則が実施されたことによって韓国水域への出漁が正式に認められた。(※「正式に認められた」とあるが実態は壬午軍乱を奇貨として日本政府が朝鮮政府に不平等条約を押し付けたのであった。)
  3. ※( 明治22(1889)年「日本朝鮮両国通漁章程」調印、翌年1月公布・実施。通漁に免許、鑑札が必要。
  4. 明治30年(1897)日本で遠洋漁業奨励法が発布されて、零細漁民の韓国出漁が奨励されるようになった。(※明治30(1897)年11月 遠洋漁業奨励法。朝鮮漁業協会(後に朝鮮通漁協会連合会)設立、朝鮮海出漁の奨励、出漁者の保護、取締り_片岡千賀之2006
  5. ※(明治33(1900)年)日本人の漁獲できる漁場が之までの慶尚道、全羅道、江原道、咸鏡道に京畿道が加えられた_同上)
  6. 明治37(1904)年、日鮮漁業条約改定で、朝鮮半島全域の海区で日本漁船の操業が可能になった。(※日露戦争の展開のなかで韓国の植民地化が進んだ。6月朝鮮海域での操業権獲得、12月韓国漁業調査)
  7. 明治41年(1908)には日韓漁業協定で、邦人も韓国人と同様漁業権を認められた。(※但し、韓国内在住の日本人が対象。これによって移住漁業が進められることになる。)
  8. 明治43年(1910)韓国併合によって日韓平等の漁業関係法案が成立した。(※「平等」というのは適当でない。韓国漁民保護のための施策が完全に撤廃されたのである。日本国内と同様の手続きになった。)

 

 (2)明治の終わりころの日本人の韓国海進出は次のようであった。

  1. 進出府県   2府23県
  2. 進出船舶数  6,000隻、
  3. 人員      20,000人

 (3)愛媛県の韓国海出漁奨励策としては
 

  1. 明治29年より韓海出漁者には食費補助を支給
  2. 明治33年より韓海出漁船建造費の補助
  3. 明治38年より出漁組合を結成させ、それらの組合に補助を支給
などがあった。

 (4)魚島での韓国海出漁の経緯
  1. 明治24年(1891)に横井庄平が鰮網(イワシ網)で巨済島に出漁したのが始まりである(内海漁業の経営と海外漁業の発展、明四一)。明治25年、あるいは26年ころとする記録もある(明治44 越智郡魚島村郷土語他)。
  2. 明治26年(1893)になると、日吉重太郎・大林新平らも出漁するようになった。
  3. 明治32年(1899)からは鰮巾着網を使用するようになった。
  4. 日露戦争の明治38年(1905)には船数20隻、170人の出漁者があった

 魚島の韓海での漁業は愛媛県かでも屈指の成果を上げている。
 (5)魚島漁民の大正3年(1914)の出漁状況は

  1. 出漁船数では愛媛県全体で240隻のうち77隻(32.1.%)
  2. 出漁人員では愛媛県全体で1,409人、そのうち660人が魚島漁民(46.8%)
  3. 漁獲高では愛媛県全体で29万225円のうち魚島分が12万円(46.1%)

と成っている。驚くべき漁獲量である。

 (6)『魚島村史』は韓海への出漁のようすを次のように記録している。

  1. 八丁櫓を四丁櫓に滅らした漁船に乗り組んだ。
  2. 親船二隻、子船六隻の八隻で船団を組んだ。
  3. 2月末に魚島を出発した。
  4. 櫓と帆で約12日かけて釜山に近い巨済島(コジェド)をめざし必死に櫓を漕いだ。
  5. 途中は、船のへりに竹を立て、シトミを張ってしぶきを防いだ。
  6. 現地に着くと、大小8隻、約40人が一統となり、300日間ぶっ通しでイワシを追った。
  7. イワシは年中獲れた。イリコを作って日本へ送った。
  8. サバの漁期はは3月から5月までと、9月から11月までの二回。
  9. 300日の間めったに上陸することはなかった。
  10. 一月の末、魚島にかえってきた

 

 (7)韓国でのイリコ作り

  1. 網元のほうは、韓国現地で土地を借り、事務所とイリコ乾燥場を造った。
  2. できたイリコは、下関等の仲買人の手で内地へ送られた。


 (8)魚島の韓海漁業の隆盛振り

  1. 多い時は、魚島村だけで16統も出漁し、
  2. 一時は「魚島組」という会社を設立したことがある。
  3. 彼らは巨済島旧助羅(クジョラ)浦を拠点にし
  4. 活動の場を知世浦・玉林里・長承浦へと拡大していき、ついには 「小魚島村」という小集落まで出現した。

 

 (9)地元韓国人の拒絶反応
  「ここに至るまでには、先駆者たちのなみなみならぬ苦労があった。なによりも難儀したのは、地元住民が新来の外国漁民にたいして強い拒絶反応を示したことで、民情の違いもあって、和解のための努力はたいへんなものであった。

 「巨済島進出時の魚島漁民と韓国人漁民の衝突については『魚島村誌第一集、資料編』に収録している『明治四一年、内海漁業の経営と海外漁業の発展』に詳しい。       

※【『内海漁業の経営と海外漁業の発展』より抜粋】
 「翌二九年、既に出漁の端を開きたる巨済島の旧約羅湾に向かい砂浜に小屋掛けをなし、業端を開かんとするも、頑迷なる彼らは再び言を左右に託し、小屋掛けを認めず、これを撤去せざれば火を放たんと、三〇〇余人の鮮民、竹槍・鎧旗を以て口戦を挑む。(中略)その間、センダリーなる老鮮人およびその甥某は相互の間にありて弁難款解大いに努め、漸くにして意解け情通じ、僅かに紛糾を避け得た。これはセンダリー叔父・甥の熱誠に待つもの多大なりしが鮮人は二人を猜疑して売国奴なりとし、遂に辞を設けて府司の獄裡に投ずる厄に遭いたれば、百方策を巡らし、冤を訴え、赦を求む云々」
 

 

 

 

 


2007年4月5日
『魚島村史』を読む
老馬新聞