2007年4月5日
「魚島村史」を読む
老馬新聞

愛媛県立図書館で『海南新聞』の韓国関係記事を収集中、『魚島村史』を見る機会があった。もしやと思って漁業関連と部分に目を通してみると果してここに『朝鮮出漁』と題して魚島漁民による韓国水域での通漁に関する詳細な論文があった。

 この論文には、魚島漁民が韓国巨済島旧助羅沖の小島に漁業基地を作ろうとした際、韓国人から猛烈抗議にあって紛争と成った経過も書かれている。またこの紛争についての韓国側の見解も紹介してあり貴重な資料となっている。

先ず魚島漁民が韓国海域に出漁する遠因ともなったとされる廃藩後の大規模な「漁業紛争」に関する部分を見ておこう。この部分は川井家継、横井茂両氏の執筆である。



漁場紛争


 藩政時代、魚島周辺の海域を領有していた今治藩の漁場取締りは厳重をきわめたつねに監視船を出し、重大な紛争が起こった場合、たとえば、他領からの侵犯があったときには、もっぱら代官がこれにあたっていたものであるが、明治維新の後は、旧藩のような監視船もなく、各浦の漁民が自力で取締りにあたった。それにともなって、広島県側からの入漁が急増し、愛媛県側の漁民と紛争をくり返すようになった。


 明治一三年(一ハハ)三月、広島県の漁民が大三島野々江沖に侵入したのを手初めに、同年六月には広島県漁民が大島・大三島の大洲漁場に侵入して宮窪漁民に捕らえられた。同一六年(一八八三)には、広島県漁民が大三島沖に侵入し、同二〇年ニハ八七)五月、広島県漁民が大挙して大三島および伯方島の専用漁場に侵入して、愛媛県側の漁民と衝突した。本村の漁区も、香川・広島両県と境を接しているため、入漁する他県の漁民とのいざこざはたえず、暴力沙汰も跡を絶たなかった。

 ひと昔前には、魚島だけで盛漁期のわずか三週間ほどでタイ・サワラ・エビ・タコなど五〇万貫の水揚げのあった海区で、質のよさは阪神市場でも王座を占め、 「魚島相場」という言葉が業者間に伝わっているほどの好漁場であるだけに、五月上旬、外海の鯛が産卵のため、潮流にのって魚島周辺に集まる時期はまさに戦場とな
る。

 広島・愛媛・香川三県の漁民が入り乱れて漁獲合戦を繰り広げるなかで、入漁協定など無視して漁区を侵犯する漁民が相次いだ。

 明治二六年(一八九三)、四月から五月にかけて、広島県漁業組合は、多数の巡査を漁船に乗せ、燧灘漁場に押し出してきた。越智郡漁業組合では、これに対抗するため、巡査を非常招集し、人夫(やくざ者)を雇って同乗させ、竹槍・石礫などを積みこんで漁場に差し向けた。
 こうして白塗りの広島漁船と黒塗りの愛媛漁船は正面からぶつかって海上闘争を繰り広げた。魚島漁民の家族は、神仏前に灯明をともして、夫や父の無事を析っていたという。

  この乱闘事件も、両県警察船の出動で鎮圧されたが、漁場は毎年のように漁民の血が流された。こうした経過を経て、明治四四年(一九一一)、はじめて燧灘漁区の漁業権が愛媛県に属することが確認された。 こうした紛争は、海上取り締まりの弱体化や、両県の「入会」についての認識や解釈のちがいもさることながら、やはり一番の原因は、当時のあいまいな漁場制度にあったといえよう。さらに当時の漁村がかかえていた深刻な人口過剰や漁民の窮乏化か、問題の棋底にあったといわれている。


 ともかくも、この事件は明治政府に強い衝撃を与え、漁場制度の確立や、沿岸漁民にたいして、遠洋漁業や朝鮮海域への出漁を奨励するなど、政府の漁業政策に大きな影響をおよぼした。

         (川井家継・横井 茂)