2007年3月6日
海南新聞
明治28年
1月9日~10日

1895(明治28)年1月9日

●兵卒の憐れなる最後

 北宇和郡丸穂村の山本長太郎氏は 身後備砲兵一等卒の軍籍にありを以て 去る頃 後備の召集に応じ軍に従ひて渡韓し 屡々各所の戦争にも従ひたるが 元来神経質の性にて 去年十二月二十五日召集を解除せられ郷里丸穂村に帰りて療養中なりしが 病益々重く遂に発狂して 毎日毎夜戦争の浮言のみを言ひつ丶ありし位にて 到底全治の見込みもなかりしが 遂に去月二十八日 溘焉として黄泉の旅路に就きたりと


参考サイト PTSD


1895(明治28)年1月10日

報雑 ●広島特報 (一月八日発)
真鍋 俊雄報
全羅道の東学党

 ○掲第二百五十六号
去る十二月三十一日午后釜山出港 左水軍節度使金激圭本艦へ来訪に付 去る三十日釜山より我陸兵一中隊順天へ向け進発の事件を通牒し 尚順天攻撃 東徒鎮定の方法等を協議せり 其結果に依り 今二日午前左水営より 中軍申椀 及 中領将 郭景煥、韓兵百名を指揮して 海路河東に向て発向す 我陸兵を出迎し 且つ明三日中に 領官李周会(李量栄又は南州とも号す)韓兵六百名を指揮して陸路順天街道新城浦に向け出発 来る六日まで我陸軍へ結合し 順天城攻撃の筈に候
目下東徒首領は専ら順天城に屯集して十二邑の東徒を集合中 に之有り候間 未だ順天城より左水営等への進撃の運びに至らず

一 従来全羅道中五十三管は東徒の占領する所となり 残り三管 左水営羅洲及び雲岸は東徒に与せず 依て目下 
東徒の名簿に列するものは百万人余にも相成可申候間 東徒の首領等は格別其他下等の愚民に対して 可成帰順反正の方法を開設せざるを得ざる場合と相成候に付 文明国の例に準じ 策一月一日左水営節度使は囚獄にありし東徒二十人の内 三名の婦人を宣誓の上解放し 斬罪を免じたり 殊に日本の朝野に対する厚意 及び我筑波艦の東学徒に対する仁愛の主旨を説明して後 東徒中へ放逐せり

二 本艦は来る六日頃 順天攻撃の結果を認め 竹林浦を経て釜山へ回航の見込 尤も竹林浦へは測量員の外 大尉一名少尉二名か詩歌二十余を残し置候 依て此旨報告す
     廿八年一月二日
                                        左水営港先任官
                                             筑波艦長  黒岡 帯刀

大本営宛
東学巨魁殺さる
○掲第二百五十七号
電報 一月七日 午前八時三十五分発 
       仝 仝 仝 八時四十五分着
本月初め順天府光陽県に村の役人及び人民より
東学党の巨魁金ジンバイ 柳カトク 鄭虞烱以下を殺して左水営に降伏し謝罪を乞う 筑波の分遣隊は五日光陽に上陸し 金ジンバイ 柳カトクの首級を実見せり 右水営の韓兵五百 順天府に赴けり 目下東学党 首領を失ひ四方に散乱せり
                                            一月七日 筑波艦長



1895(明治28)年1月10

奉答書
○掲第二百五十八号
電報 廿七年十二月三十一日 午後四時安東県発 
    廿八年 一月    一日 午前令時四十時着
海城地方の戦勝は 前司令官の計画 第三師団長の指揮 共に宜しきを得 将校以下の忠勇に因ると雖も 是偏に 陛下御威徳の致す所なり 今や優渥なる聖勅を賜ふ 臣等感激の至りて禁へず 益々奮励 将来の成功を期せんとす 謹んで奉答す
右執奏あらんことを請ふ
                       第一軍指令官
                        陸軍中将子爵 野津道貫
参謀総長

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