2007年4月1日
海南新聞
明治41年
8月25日~8月27日

老馬新聞

1908(明治41)年8月25日

軍人万能主義

▲今や東洋拓殖会社熟成の時期に入りたりとて 此方にかけては特に神経過敏の連中、早くも暗中の飛躍を試むるものあり、目下 宇佐川軍務局長、山根下関要塞司令官、東洋拓殖会社総裁候補に担がれ居るが如し。
▲右の両名何れも軍人也、軍人の使途多きこと哉、軍人の外に人間の無き訳もあらさるべきに、何が故に爾く軍人のみを有難く思へるにや、気の知れぬ事也、余輩は此の軍人万能主義に反対す、然り極力反対す。
▲総裁とか局長とか、凡てマスターとなるには、手腕よりも人格を以て立たざるべからず、手腕の方より言ふも、拓殖会社の総裁に他の何人よりも軍人が適当なる理由は、無論ある可からざる事也、更に人格の上より見ては余は其非なることを語らんと欲す、
▲余を以て忌憚なく言はしめば 軍人にて人格の円満なる人間は大山公一人也、桂太郎候や、円満に近き方なるべし、其他は概ね零也、軍人としての手腕は言はず、人格の上より見る時は、不円満、不具者、即ち人格上の屑は殊に軍人に多き也、軍人は決して担ぎ回るべき品物に非ず。
▲軍人社会にありては士官以上は、兎に角に上に立つ部分にして下士卒は下に居る部分也。下に居るものは自ら不平不満あり。不平不満は或る意味に於て人を磨く砥礪となる、人間は不平不満の多きほど人格上の価値を多く所有す、神ならざる以上は円満の境に入れば入る程、たるみの出てくるもの也、傲慢を醸し来るもの也、同時に気が短かくなり、己れを知るの明を傷け世の中は自分の思ふ通りになるが如く思ふやうになり、終に世の真価が分からなくなる也。
▲上に居るとは言ひながら、少尉より中隊長くらいまでは軍人界の小僧にして頭を擡ぐるの暇なし、既に大隊長となれば居常上官を見るは聯隊長一人也、聯隊長となれば最早小専制国の小キングにして旅団長がたまに来る外には上官なき也、少将 中将 殊に大将となれば、鳥なき郷の蝙蝠に同じく、幾らでも威張り放大也、故に軍人は聯隊長位より漸く傲慢となり、たるみ来り膨張し来る也、膨張はからぶくれ也、実のあるふくれ方にあらず、即ち尊敬すべき大成に非ざるなり。
▲兎に角余輩は、軍人は軍人界に置くべきもの也と思惟す、千万の一人、特に傑出したる人の外は、無暗み是を担ぎ回るだけの価値ないものと信ず、満州は暫く言はず、韓国は最早軍人政治の時代は通り越せり、軍人万能主義は禍ひなる哉


1908(明治41)年8月25日

●韓国本年の米作

 本年韓国に於ける米作は未曾有の豊作にして全韓を通じ平年の二倍以上の収穫あるべしと予期せらる 韓米商は其豊作を見越し 囲米を出荷するもの増加し 正米市場は弗々活況を呈しつ丶ありと韓国通信に見る

1908(明治41)年8月27日 

●韓京の松山会 在京城 柳 江 報
 
 此間報道せし如く 旧松山藩主久松伯は満韓視察の途次 さる十六日夜着京せられた、同行者は中佐白川義則氏である 旅行の目的は軍事上見学の為めなりとか、是より先き 伯来京の方に接したる京仁間在住の旧松山藩士は相糾合して歓迎の準備を為し 鉄道管理局運輸部長岡正矣氏は安東県迄出迎へ其他は何れも南大門停車場に之を迎へ伯一行は直ちに天真楼に投宿された、翌日十七日の夜は京城第一の料亭歌月楼矣花月楼に両氏の歓迎会を催し席定まるや石丸言知氏は歓迎の辞を述べ、伯及び白川中佐の答辞ありて宴に移り 席上松山古有の俗謡等其他種々なる隠し芸等出で 殊に宴席を取り締まれる老妓おゑん拍子が大洲生れなりしも奇縁にて 伊予言葉の丸出しで愉快を極め 午後十時過ぎ伯爵閣下の万歳を三唱して散会しぬ、尚ほ伯一行は翌日市内観覧を了へ 十九日午前八時三十分南大門発列車にて釜山に向はれしが 前夜会合の諸氏は何れも停車場まで見送れり、当夜来会せし松山人の氏名左の如し

皆川広済、長曾我部基、西原久、岡村武、
内山彦一、正岡景雄、橘忠雄、野村光輝、
吉田秋、岡正長岡正矣、石丸言知、神野忠武、 
門屋産市郎、藤原熊太郎、小笠原忠一
森隆孝

※久松定謨(さだこと) 1867年生まれ 松山藩主を相続。陸軍中将。大正10年万翠荘を建て陸軍大演習に来県した摂政宮の宿に当てた。大正12年松山城全体を松山市に寄付。大正14年松山に入り模範農場を経営。愛媛県知事久松定武の父。
※白川義則 1868年生まれ、松山中学中退の後軍人への道。年中支派遣軍司令官、第11師団長、関東軍司令官、1926(大正14)年陸軍大将、15年軍事参議官、1927(昭和2)年陸軍大臣。1932(昭和7)年上海派遣軍司令官として上海事変を指揮。同年4月29日、上海の虹口公園(現在の魯迅公園)での天長節祝賀会会場で朝鮮人尹奉吉の爆弾攻撃を受け重傷、翌月死亡。
※「出放題」 千草道人著に「皆川広済君」の項あり
※「仁川開港二十五年史」(渋川絵端書書店・明治41年)を著した森隆孝という人物あり