1908(明治41)年8月9日

●駐韓師団兵の減員

韓国に於ける守備師団は第十三師団の外 第十二師団の歩兵一個旅団及び憲兵若干なるが 本年十月には第十三師団全部を引揚げして之れに代るに第十二師団全部を渡韓せしむるに決したれば 同国駐屯師団は第十二師団の一個師団と憲兵のみとなり 歩兵一個旅団減少の筈なるが 暴徒の状況に依りては何時にても増派の考えなるも補助憲兵等も追々守備に慣る丶に至りてれば予定通りの減員を為すを得べしと云へり


1908(明治41)年8月9日

●韓太子の遊覧七日午後発


韓国皇太子には伊藤統監以下同伴にて十日横須賀発満州艦にて宮島及び舞子を遊覧せらる丶筈

1908(明治41)年8月11日

●韓太子の西遊


韓国皇太子殿下には十日午前九時新橋御発車、関西各地後巡遊の徒に上らせらる 御一行は・・・(以下詳細なる日程紹介あれど割愛す)

1908(明治41)年8月12日

●駐韓軍の行賞


十一月上旬を以て更代 帰国すべき駐韓第十三師団は戦役(日清戦役・・・筆者注)後引続き守備の任に当り 其他の駐韓軍も亦暴徒討伐のことに従ひ 其勲功戦時に譲らざるを以て 当局に於ては韓国事変叙賜規程なるものを設け 之が行賞の標準を定むべく過日満韓視察の途に上りたる本郷陸軍省人事局長は此等の用向きを以て京城滞在中取調べをなす筈にて 帰京後叙賜規程を定めて内閣に送付し御裁可を仰ぐ筈なりと


1908(明治41)年8月12日
韓太子呉御成


韓太子殿下には本日伊藤公以下供奉し汽車にて呉に御成りありたり


1908(明治41)年8月16日

●韓京たより 在京城 森 柳 紅


記者足下、小生は本年初夏の頃より 京城に移住仕候、京城の暑さは松山に比し日中は華氏寒暖計五度くらいは慥かに上昇するも 朝夕に至つて涼しく 恰かも気候の一変せるが如くに候、小生は緑り深き南山の麓に寓居致し居り候処 折柄本日は陰暦七月十五夜に相当し、清き月は一庭の樹を照らし、樹は一庭の影を落とし、影と光と黒白斑々として庭に満ち 真に絶景を叫び筆を投じて恍惚たるもの有之候、韓の都に此景ありとは内地の人々は夢想だにせざる処と存候、小生は日々貴紙及び愛媛、南予時事、皇国の各新聞を拝読致居候得共 何れも政争の渦中に投ぜられ韓国問題抔は真に対岸の火災視居られるは頗る奇怪に不堪候、小生は同胞の移住を促す前に当り 新聞記者或は具眼者は宜しく韓国を視察して之を県民に紹介するに努められん事を希望致候

小生は曩に志賀重昮氏と共に凡そ四十日を費して韓国内地を視察致し候、然る処近着の貴紙によれば志賀氏は県下宇摩郡の講習会に望まれ居る由 小生は氏の如き学殖豊富なる韓国通を県下に迎へしを悦ぶものに候 
今回統監府は韓国各居留民団長を官選する事とし 既に府令発布相成候処 意外に民間の輿論を喚起し 京城日報((御用紙))を除く外各新聞紙は熾に反対議論を為し 其結果大韓日報、朝鮮日々新聞は発行停止と相成候 小生は統監府が多くの利益を認めずして斯かる府令を発布し平地に波を起せしは遺憾とするものに御座候
旧松山藩主久松定謨伯は今回満韓視察の途次 来る十六日安東県より鉄路京城に来らる丶筈にて在京城、仁川の旧松山藩士は歓迎の準備に忙はしく 鉄道管理局運輸部長岡正矣氏((松山人))は本日出発新義州迄迎への為出張致候、伯は既に満韓の投資に着目せられ韓国に於ても土地の買入れ農事経営等に就き配下の某氏をして之に着手せしめられ候由に聞及び候 何れ詳細は伯に面接を得て御報道可仕候


2007年3月6日
海南新聞
明治41年
8月9日~8月16日


老馬新聞