1908(明治41)年7月22日

●古谷秘書官の韓国談

 今回伊藤統監に随伴し帰朝せる秘書官古谷久綱氏((県下東宇和人))春帆楼に於て語れる韓国談左の如し

▲統監帰朝と帰任期 伊藤統監今回の帰朝は予定の帰朝にして 別に国政上重大なる任務を帯べる模様なく韓太子の師傅を託され居れば 暑中休業に際し一時帰京したる次第なり 帰任の期限は確かに明言し難きも多分九月頃ならんか
▲韓国有名の学者金允植 今回統監に同伴し来れる中枢院議長金允植氏は七十四の高齢にして韓国元老中鏘々たる人物なり 特に詩文に長じ且つ能書の聞え高く詩集山を成せるが 元気頗る盛んに航海中吾妻艦の汽罐室に入り十六日炎熱蒸すが如き中に立つて熱心に多時間機関士の説明を聞き非常に満足を表したり 
▲前後十七年の国事犯 この金允植は単に学者を以て名を博したるのみならず 憂国の情に富み 大島圭介氏の韓国公使たる時代国事犯に問はれ七年間済洲島に流謫され 後ち赦令に遇ふて京城に還りたるも 幾何もなく復た国事に触れて十年間遠島の刑を受け 昨年の大赦に依りて放還され 今は一躍して中枢院議長の椅子を占むるに至れり
▲瑞鳳章の贈進は嚆矢 由来韓国には婦人の勲章あるも未だ嘗て外国の夫人に贈呈したる例を聞かず 今回韓廷派遣勅旨金允植氏の携帯せる勲章は 即ち韓国政府に於て夫人の佩用する一等勲章にして韓帝よち我皇后陛下、皇太子妃殿下おとび伊藤統監夫人に贈進するものなるが 其勲章の種類は勲一等瑞鳳章なるが如し
▲宮中財産の整理と安堵 韓皇室財産は過般政府に移属したり 是が決行に関し一時太皇帝其他元老閣臣の中に不服のものありたるも元来帝室の財産は或者に抵当となり又た払下げの約定を為せる等混雑を極めありたるを以て 伊藤統監は断然之れを整理し 若し帝室費の不足を告ぐる時は政府より分割することに決定し 爰に始めて上下一般安堵の思ひを為せり 
金允植・韓皇室財産関連参考サイト(木村幹論文)
▲統監政治漸く普及す 韓国の難関たりし帝室と政府財産の区別按排の都合よく運び 外国との係争問題も殆んど跡を絶ち 唯だ間島問題あるもそは主として我外務省と清国との間に於て談判中に係り 韓国は必要に応じて談判に関する材料を提供するのみ 又地方官の任用権を観察使に付与したるは 地方発達の動機となり 京城官吏には一打撃たるを失はず 要之統監政治漸次普及し将来は地方発展の策に努力すべし
義和宮の消息と待遇 日本より帰国した義和宮殿下は 伊藤統監の尽力に頼りて安全に生活するの道を講じ 矢張り親王として邸宅を構へ財産を名づけ皇室より年額支出を決定し 宮中に出入和気藹々の中にあり 伊藤統監出発当時各親王、各大臣其他と共に南大門に見送りに来られたり
▲朴泳孝の此後と宮中 済洲島に遠ざけられたる朴泳孝は本月を以て満刑となり京城に還る筈なり 世人は頻りに朴が帰京後は何事か謀叛を企つるにやに伝ふるものもあるも 宮中廓清の今日 朴如何に怪腕を振ひたりとて到底如何とも為すこと能はざるべし

朴泳孝関連参考サイト(「大河の釣り人」)
※古谷久綱(一八七四~一九一九)政治家、明間(あかんま)村(現東宇和郡宇和町)生まれ、二八才で伊藤内閣の総理大臣秘書官、続いて韓国統監秘書官、枢密院議長秘書官とつねに(伊藤博文の)側近にあった。伊藤遭難(一九〇九)の後は宮内省に入り式武官、李王職御用掛を歴任した。著書に「藤公余影」。(「愛媛県百科事典」より)

1908(明治41)年7月23日

●統監兼枢密院議長


韓国の施政改善は着々進捗し且曽根副統監の威望手腕は韓国上下を推服せしめ 今は統監感知に常任せざるも施政上故障なきに至りしを以て 畏くも聖上陛下に於かせられては統監が老躯を以て遠く韓地に常任するを愍み給ひ 内地に召還し繁劇ならざる枢密院議長の重職を兼任せしめ 傍ら韓国皇大師の職に当たらしめ 気候の温暖のときを見計らひ 時々韓地に赴きて統監の植に就かしめんとの在り難き思召に出でられたり


1908(明治41)年7月25日

●統監邸へ勅使


伊藤統監帰朝に就き畏き辺よりは直に御を大磯に御差遣相成りたり

1908(明治41)年7月25日

●陛下と韓皇儲 


天皇陛下には御留学中の韓国皇太子殿下御来朝ご初めての暑中なるを以て 様子如何にと大御心に掛けさせ給ひ 二十二日午前十時田中宮相迄 優渥なる御諚と共に珍奇なる果物数顆を御下賜相成り殿下には深く御礼を言上せらる

1908(明治41)年7月29日

●日韓人の衝突


上海電報によれば韓人××(二字読取不能)千人は吉林省と韓国の境上にて日本人と戦ひ日本兵四十名以上、同士官三名を殺し数多の韓人は吉林省に避難し 清国は国境を保守し居れりとの報あり


2007年3月6日
海南新聞
明治41年
7月22日~29日

老馬新聞