1908(明治41)年7月12日

●樺太島の新殖民地

 日露境界画定事業の策源地なりし同島東岸河口静河は其後漸く邦人の注意する所となり 現に四十余戸の本邦漁民移住せるが 同地付近沿岸は南樺太中最も良好なる鱒の産地なれば 同島庁に於ても本年度内に同地方に二百戸の殖民地区画を行ふ筈なるも 在来の移住者は殆んど無許可のもの丶みなれば早晩相当の手続きを経て宅地の貸付を許可さるべしと云ふ


1908(明治41)年7月12日

●間島在住邦人数

 外務省最近の調査によれば間島に於る本邦在住者は合計百七十五名なり 尤も右人員中には統監府出張所員その他官公吏雇員は包含し居らずといふ


1908(明治41)年7月15日

●伊藤公転任説

 伊藤統監今回帰朝の上は枢密院議長に転任すべしとの説ありしが 右は弥事実となりて 同統監は願に依りて本官を免じ枢密院議長に選任せられ山県公は専ら元帥と用務に鞅掌することとなり 国歩艱難の今日両元老ごも帝都に在りて 屡陛下の御下問に奉答すること丶なるべく 伊藤統監が弥辞職するとすれば 同時に曽根副統監が統監に昇進し曽根氏が統監とならば鶴原総務長官は辞職し多分当分欠員の儘ならんと


1908(明治41)年7月15

●在韓の宣教師
 在韓軍隊御慰問使として 襄に渡韓したる鷹司侍従武官は帰来語て曰く 韓国には今に日本軍隊を疑ふ排日主義の蛮民ありて時々陥穽を企つるなど 相変らず反間策を廻らし居るもの丶如く 唯だ困るは宣教師の一団にして未だ我国の真意を知らず 或は充分理解し居る者までが愚なる韓人を使嗾して宜からぬ企てを廻らし 常に日本側の欠点を針小棒大に吹聴するが如き匪賊以上に度し難き難物なり


1908(明治41)年7月19
●移民取締厳重
日本政府の移民取締に対する米国の苦情は此の頃又々再発し 同国政府は移民監視人二十名を増員したりとの事なり


1908(明治41)年7月19
●韓国錦江左岸の日本村 
▲方百里に達す 将来三南鉄道の敷設さるべき錦江左岸即ち忠南、全北の一部に跨る平原にありて邦人の農事経営に従事するもの目下大小五十四箇所あり 其大なるは百町歩以上の土地を有し少きも二三十町歩を下らず 此外買収せる土地を韓人に小作せしめつ丶あるもの等を合せば総計方百里に垂んとする面積を有し 而して之を区別すれば左の四大平原となすを得べし
▲四個の大平原 
一は細川男爵の経営に成る全州大場村農場を中心とせる全州平野、
一は古阜郡平橋里を中心とする古阜、泰仁、井邑、万頃の五郡に跨る古阜平野にして、
他は連山郡馬九坪を中心として連山、扶余、恩灌に渉る江景平野
及び臨陂下光里を中心として沃溝 臨陂の二郡に渉る群山平野なり
▲重なる経営者 
全州平野には岩崎男の経営に成る東山農場、細川男爵家の大場村等を初めとし左の農場あり
全州双江里      木度 
同上五山里      藤井
同上鶴毘(?)里   真田 
金堤白鴎亭      吉田
此外大小十数箇処あり

古阜平野には
古阜平橋里      大   
泰仁本湖里      熊本
井邑郡井邑      今井
 (其の外数箇処あり)

また江景平野には目下左の農場あり
連山馬九坪      小林
同上           荒巻
同上           末永
扶余郡場岩      勧農会
(外数箇処あり)

群山平野は左の如し
臨陂下光里      大倉
同上外日里      川崎
同上蝶山里      楠田
同上外山里      烏谷
沃溝 築洞       宮崎
同上新興洞      佐藤

其他二十四箇所あり 因に臨陂の大場農場は大倉喜八郎氏の経営に係る

参考サイト 大倉喜八郎

2007年3月6日
海南新聞
明治41年
7月12日~19日

老馬新聞