2007年3月6日
海南新聞
明治41年
5月1日~13日

老馬新聞

1908(明治41)年5月6日

●間島問題如何

間島問題に関し 林公使は帰朝前清国外務部と交渉する処あるべしとの報あるも 我は間島の所属如何を直に争はんとするものに非ず 旧慣に依りて同島在住の韓民を保護せんとするの外他意あるにあらざれば 目下の処間島出張所の官制を設け 之が取締を為すに至りたるも 単に形式の上に重を加へたるのみにして 其実質に於ては 毫も従来と異なる処なく 清国よりも之に対し その後何等の抗議を申来ることなし 従て林公使帰朝前に交渉を為すの要なく 同問題は到底短期日の間に解決するの望みなしと云ふ者あり


1908(明治41)年5月6日 

●漁村の発展

 西宇和郡二木生村大字二及は同郡に於る漁村なるが 操業するは×
(ハエ?)縄網 或はウタセ網、刺目網にて 沿岸或は土佐海にて漁業を営むに過ぎざりしに 近時は遠海出漁を企図するものお起きに至り 其の筋の補助を得て 朝鮮海方面へ渡航せるもの数団体ありて 其発展昔日の比にあらず 随って丶部落の金融は富裕なりといふ

1908(明治41)年5月7日 

●統監邸大会議

韓国電報によれば 去る三日統監邸に於ける伊藤統監、曽根副統監 長谷川軍司令官、鶴原総務長官、石塚監査部長、明石憲兵隊長、丸山警視総監、松井警務局長等の会議は 約三時間に亘り 給仕を遠ざけて秘密を守り 頗る重要の問題なりし如く 而かも参与官を兼任せる各次官を加へずして警視総監 警務局長を臨席せしめたるにより見れば 慥に先頃より聞込みたる暴徒鎮定の励行に関すること明らかなり 右統監官邸会議は此方法を協議確定せるものと察せらるる 果して然りとすれば駐韓憲兵警察官の新なる増員を為すための具体的方法の採用を発表せらる丶時期何れ遠からざるべしと



1908(明治41)年5月12日 

●殖民地貸付

北海道庁に本年より新たに貸付さるべき殖民地に対し 本県より団結移住の目的にて土地貸付を願出たるもの丶中 宇摩郡中之庄村宮崎菊治氏の分は石狩国雨龍郡多度志原野と確定許可されたり

1908(明治41)年5月12日 

●渡韓の両連隊

今回韓国に派遣せらるべき第六師団の第二十三連隊は十日門司より、第七師団の第廿七連隊は十一日小樽より 何れも乗船 仁川に上陸する由なるが 今回は旅団編成となさず 唯連隊二個を長谷川駐韓軍司令官指揮の下に増加するまでなりと


1908(明治41)年5月13日 

緑陰偶筆植民地と快楽機関

植民地に於て識者の考慮を要することは移住民の為に健全なる快楽の機関を設けて遣るといふことである、独身者は兎角に落付かぬものから家族携帯者に限るとは何人も能く云ふ所である、成程家族ある者は独身者よりも比較的に移住地に落付がよいは勿論の話ながら 然し移住先に健全なる快楽を求むるの途がないと、折角の家族携帯者もその家族の寂寥を感ずる為に 腰の据わらぬ結果を見るを免れぬのである、最も内国に居た時分に家主を始め米屋薪屋より責められ居りし貧困の徒は 移住後は月に五円なり七円なり貯金の出来る面白さに 夫婦共々大に勉強するもの丶、奏任官に成り 掛り位以上の者は亭主は儲けた金を以て外で放蕩に耽る、家族は異郷の事とて一層寂寥を感ずるといふ 面白からざる結果を見るさうである(松嶺)