2007年3月13日
海南新聞
明治41年6月2日

1908(明治41)年6月2日 

●韓国清津たより
記者曰く 左の通信は在清津事務官松本重敏氏(新居郡飯岡村出身)より本社重役岩崎一高氏の許に達せしものなるが 本紙に載せて世に紹介すること丶せり

日本海に面せる北大陸は実に豊富なる農産地なり、是迄は沿岸に良港なく、囲壁の内にありて通路なきため、夥多の財宝を空しく埋蔵せざるを得ざらしめたり、手近の間島の内 東部間島丈にても 我四国ほどの面積を有し、其の一等農産地として、山部を除き約四十万町歩を有し、他に比類なき非常の生産力を存し、幾許にても無限の財宝を広く世界に輸出し、又其の必要なる物資を輸入せん為めに、本年四月一日清津を開港したり、清津は我四国の産物を其の四周の諸港湾より輸出する分量、或は其れ以上の分量を有する間島の物資を合せて一手に輸出し 又其の必要なる物資を合せて一手に輸入せざるべからざる港湾なり

斯くの如く清津は、北大陸日本海沿岸に於ける唯一の出入門口なるが故に、必要欠くべからざる貿易港なり 此点に於て清津の真価は実に無量なりと謂つべし、尠くとも韓国沿岸中重要なる易港と言はざるべからず 然れども現時の清津と間島の間に在る道路は余りにも宜しからざるが故に 豊富なる間島の産物を思ふ存分に輸出することを得ず 其れが為に無限の生産力を有する莫大なる良農産地も、今は唯僅に其の五分の一と 爾かも粗略に耕して 徒らに天与の財宝を埋蔵し置かざるべからざるは真に痛惜の至りに耐へざるなり、

然れども此れは是れ一時の雲烟に過ぎず、清津より会寧まで二十三里の間には 現に手押鉄道ありて 盛んに物資を輸送し 手押鉄道にては間に合はざるを以て、目下軽便汽車に改修せんとして切々其の計画中に在り、会寧より間島まで十二里の間は山路にして 支那馬車等に籍りて輸送し、此道も亦当局者が折角改修策を講じつ丶あるを以て、清津間島間の輸送の便利を得るに至るは近き未来に在り、其内には世界の要路たる吉林鉄道も間島を横切て清津に延長して莫大なる輸出入を見るに至るべし、

現時清津には約一千の日本人在住して未だ大市街を成せりと言ふ訳には至らざれども、昨年の春頃には僅々数十の日本人が在住したるに過ぎざりしが、僅か一年余の今日一千の日本人が在住せるに至りたるは大発展なりと言はざるべからず、

而かも新市街の計画の為め地所を得る能はず、従ひて家屋を建築することを得ざるが為に、夥しく日本人の入り込み来りたるも居住することを得ざるに付き 余儀なく一時他処に居住するの止むを得ざるに至らしめたり、

然るに本月一日市街地の一部は払下と為り、而かも一般経済界の銷沈せる今日に在りて、驚くべき高価を以て競売し、今や盛に建築中なり、官業としては理事庁の市街経営、税関の海面埋築工事等に多忙を極め、清津の転地は活躍して経済界銷沈の風は何処の辺に吹くかと怪ましむ、

清津理事庁の管内には 鏡城、会寧、穏城、鐘城、富寧、慶源、慶興等の商業地あり、羅南には軍営築造に多忙を極め、又到る処牧畜に好適地あり、

近来頻々として金山、砂金、銅鉄、石炭等を発見し、採掘を出願する者夥しく、海面は東洋有数の水産に富み、雄基湾、羅津湾、黄魚浦等は有名なる漁場にて、皆清津を中心地として経営せざるを得ざるなり、

日本より清津に寄港の汽船は、従来の半御用船の加賀丸、琴平丸、南越丸、郵便命令の海運丸、正義丸の外に開港後、郵便会社の弘前丸、大礼
(?)丸等を加へ、毎航海百乃至二百の日本人を積み来り、清津理事庁管内 現在日本人の数は三千以上に達せり、音羽丸、正成丸、泰盛(?)丸、××丸、俊昌丸等は沿岸航海船として寄港し、猶又目下敦賀清津間直通航路を開かんとして計画中なる船主あり、

以上略述する処に因りて、清津の真価無量にして、清津の将来は大多望なることを知るべし、
愛媛県人も多少来住し 或は漁業 或は料理業 或は土木請負業等に従事して何れも相当に成功し 若
(モト?)県会議員国松磊奇智氏は清津沿岸に於て真珠貝の密集地を発見し目下真珠貝取出出願中に在り

※文中「理事庁」は「統監府」の下部組織 
参考サイト http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm38-267.htm
※次のサイトの「地図編」に参考となる地図がある
www.tkfd.or.jp/admin/files/2006-8.pdf
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