2007年3月26日
移住漁村の里
二及 3
老馬新聞


 今回の三瓶訪問で、若干の曲折の後お会いできた方が、和泉政吉の孫即ち和泉政夫さんである。この方の娘さんがなんと私の高校時代の同級生だというんでほんとに世間は狭い。
 和泉政夫さんは1918(大正7)年生まれ、矍鑠たるご老人である。



●韓国移住漁業 海南新聞 1908(明治41)年4月1日
韓国移住漁業 西宇和郡二木生村大字二及 和泉政吉外八戸の漁業者は 今回韓国巨済島に移住して漁業を営むこととなりしに付遠海出漁団体聯合会より夫々補助金を交付する由

 この記事で遠海出漁団体聯合会から補助金を受給した和泉政吉さんの思い出を政夫さんからお聞きしようとお邪魔したのである。
 政夫さんは「私は全羅南道ワンド生まれの89歳です」と自己紹介された。「ワンド」と韓国語の発音を使われるところがうれしい。父上の九十松さんは家族を莞島に置いて、木浦ー珍島航路の客船の機関長を勤めておられたそうだ。
 政夫さんの当時の思い出。

  1. 邑内(これも「ウムネ」と発音された)にある尋常高等小学校に5年生まで通った。家から25分〜30分のところにあった。 (小学校尋常科は6年制(6〜12歳)だったから5年生ということは10歳か)
  2. 朝鮮人の家は藁葺きの家であった。
  3. 日本人の集落は「伊予村」と称していた。
  4. 「伊予村」の構成員は二及の出身者だけだった。
  5. 「伊予村」の建物はヒノキ作りで、8畳、6畳、4畳半と土間と便所。土間に竈があった。畳は本間であったから部屋は広かった。
  6. 年寄りのいる家には4畳半の特別の年寄り部屋が作ってあった。
  7. 「伊予村」には井戸が二つあって、海岸近くの井戸は雑用、山手の井戸は飲料に使っていた。
  8. 莞島の治安はよかった。「日本人の言うことを聞かんといけんということになっとったのだろう]の政夫さんの感想。日韓併合からすでに10年が経過していたころだ。
  9. 朝鮮人が海苔ヒビで海苔を採っているのをよく見かけた。日本人は海苔採集はやってなかった。
  10. 莞島で海苔の検査をしていた松下繁男さんが二及におられ今もお元気だ。この人に聞けば莞島の「伊予村の」ことが分かるかもしれない。
  11. 祖父政吉は莞島で死去した。
  12. 尋常高等小学校6年で父親九十松さんの住む木浦に引っ越した。
  13. 卒業後、日本窒素系列の朝鮮窒素に就職し北朝鮮「興南(フンナム)」に赴任した。参考サイト
  14. 朝鮮窒素は日本人労働者だけで3万人が勤務していた。そのほかに多数の朝鮮人雑役が働いていた。
  15. 朝鮮窒素は2万キロワットの発電所を3ヶ所もっており、社宅でも電気がふんだんに使われていた。
  16. 冬はマイナス38度まで下がるが、各家にスチームラジエータが設置されており家の中は暖かかった。窓はガラス窓が二重になっておりその内側に障子があった。当時既に各家の便所は水洗トイレだった。電話もダイヤル式で、日本へ帰ったらまだ交換手の取次ぎをやっていて驚いた。
  17. 浴場は公衆大浴場があって会社から支給される木の板の鑑札を持っていけば無料で入れた。
  18. 昭和16年徴兵検査。松山から興南へ出張してきた係が徴兵検査を実施した。現役入隊で会寧(フェヒョン)の自動車班で教育を受けた。
  19. その後、マレー上陸作戦、シンガポール攻略戦、援蒋ラルート遮断の為の雲南作戦を経て、無謀な作戦で50%、2万5千人の戦死者、25%後送患者を出したインパール作戦に従軍。7月5日の作戦中止命令による「転進」によって無事終戦を迎えられた。「インパールでは戦友の介抱ばかりでした」といわれるようにご本人はさしたる被害もないまま無事帰還された。
  20. 弟さんも衛生兵として従軍されたが戦死、遺骨箱もなく木札一枚が帰ってきた。
  21. 客船の機関長をしていた父上九十松さんは配下の朝鮮人青年に機関士免許の取得を勧め、自ら受験勉強の指導もされた。免許取得に成功した朝鮮人青年には就職先の世話もしていた。
  22. 終戦のころはそうした青年の子どもたちが青年団の中心になっており、彼らが日本人の警護を買って出てくれていた。そうことがあって「伊予村」の日本人達は無事帰国することが出来たのだった。


 肝心の和泉政吉さんのお話を伺う時間がなかったが改めてお話を聞かせていただくことになっているのでその際に伺ってみたい。