2007年3月26日
移住漁村の里
二及 2
老馬新聞


西予市二及の漁民の台湾への移住について触れたが、この問題に関する研究者の論文があった。
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西村 一之 台湾東部港町における日本人漁業移民の役割−近海漁業の到来と港町形成− 1999.1 『族』(筑波大学歴史人類学系民族学研究室)  

である。この論文には

  1. 「台湾に突棒漁業(つきんぼ漁業)が初めて行はれるようになつたのは、大正12年で大分縣や愛媛縣でこの漁業を経営してゐた人人によつて創められた。」
  2. 「突棒漁業の操業区域の拡大に伴って、北東部の蘇澳、花蓮港、南東部の新港、これら3漁港の築港は、東部の近海漁業の発展を目指して行われた。そして漁港を中心とする地域には、台北州あるいは台湾総督府の手によって日本人漁業移民の募集が行われ、『移民村』が作られた。」
  3. 日本時代の利益配分法として、「愛媛県から台湾にカジキの突棒漁業者として来ている漁民が、堅実な経営をしている理由として、その特異な分配方法『伊豫分け』」があった。「伊豫分けの特徴として、水揚げから経費を差し引き船主配当をとる点、次に配当に役割に応じた差を設けない点をあげている」
  4. 「移住に関しては、漁港竣工前の昭和7年(1932)6月、台湾東部海岸の操業環境が似ているとされた地域の各県に募集がおこなわれた。それらは、沖縄・鹿児島・宮崎・大分・愛媛・高知・和歌山・三重・静岡・神奈川・千葉・熊本・長崎・福岡・山口の各県である。」


など興味深い事実が明らかにされている。これらの事実は、およそ「三瓶町史」の

1924(大正13)年には対馬近海のカジキマグロ漁が不振になり、珊瑚採集業者からの情報をもとに台湾に出漁台北州の南方澳を根拠地に操業を始めた。(「三瓶町史 下」には「大正13年台湾総督府で漁業移民募集計画があることを知り、長早、二及の同志とともに応募して家族同伴で移住した」とある。」)








という記事と符合するもののように見受けられるが、或いは他の地域の漁民である可能性もある。。