2007年3月24日
移住漁村の里
二及(にぎゅう)

老馬新聞



海南新聞、1908(明治41)年4月1日の記事に二木生(にきぶ)村の和泉政吉が巨済島に移住して漁業を営むという記事が出ている。


●韓国移住漁業
韓国移住漁業 西宇和郡二木生村大字二及 和泉政吉外八戸の漁業者は 今回韓国巨済島に移住して漁業を営むこととなりしに付遠海出漁団体聯合会より夫々補助金を交付する由


二木生は私が育った三瓶町内の集落であるので、前々から一度訪問してみたいと思っていたのだが昨日それが実現した。有益な聞き取りが出来たので書き留めておこうと思うが、その前に「愛媛県百科事典」「全国地名辞典」「三瓶町史」などに記されている記録に目を通して置こう。地曳網を中心とした漁業の不振もあって、予想以上に早い時期から韓国沿岸への進出が敢行されていたことがわかる。


上の記事の「二木生」と云う村は1889(明治22)年に吉田藩に属した「及(にぎゅう)浦」「周(しゅうき)浦」「垣(はぶ)浦」が合併してできた村、各浦名から一字ずつ取って命名した。1890(明治23)年の人口が582戸、3248人だったという。(愛媛県百科大事典)。→地図



上の写真の右隅に二及がある。二及浦について、寛文年間(1661〜)の「西国巡検志」は<三瓶湾十浦中最大の港。何風にもよい良港。百石以上の船三十艘が停泊できる>と記しているという(角川日本地名大辞典)。三瓶湾の漁業と海運の中心地であったわけだ。

漁業の中心といっても、三瓶湾の漁業は「明治になっても地曳網でのカタクチイワシの漁業が多く、大正年間まで同じような状況であった」(『三瓶町史』)というから、上記和泉政吉たちが巨済島に移住を決意したころも地元の漁は地曳網が中心であったのであろう。

『三瓶町史』は三瓶町の遠海遠洋漁業の歴史についても記録していた(「第三章 産業経済 三 遠海遠洋漁業」)。この本は前から持っていたのだが恥ずかしながら今日それに初めて気ががついた次第。

二及の漁民の遠海漁業への挑戦は早くから行われていて『三瓶町史』は次のように記録している。


年代 動力 魚種 出漁場所 出漁者
明治10年頃 櫓・帆 サバ 土佐沖 二及の漁民
明治35年 櫓・帆 カジキマグロ 対馬付近 浜田音太郎(長早)
明治39年 櫓・帆 イワシ 韓国慶尚南道 清水久松(二及)
明治42年 櫓・帆 タラ、サケ 沿海州 朝井猪太郎(朝立)
明治45年 櫓・帆 韓国巨済島、欲知島 二木生信用組合
昭和10年 動力 サバ 鹿児島沖 宮本憲吉(二及)
昭和23年 動力 サバ 韓国済州島、東シナ海 吉岡惣右エ門ほか
昭和36年 動力 マグロ 沖縄 三瓶湾漁業生産組合
昭和37年 動力 マグロ 南太平洋(サモア) 三瓶湾漁業生産組合
昭和47年 動力 イカ ニュージーランド 佐々木重敏(周木)


この表によると二及漁民の韓国進出は明治39年にすでに始まっていたのだった。しかも、使用された漁船は動力船ではない。櫓櫂と帆によって三瓶湾を漕ぎ出し韓国まで出掛けたわけであるからその苦労も並大抵ではなかっただろう。これから調べる和泉政吉の船も櫓櫂と帆の船であったに違いない。漁船に石油発動機が取り付けられたのは昭和初年のことだという。

遠洋遠海漁業が進められた経緯は次のようだったという。

  1. 1881(明治14)年、二及の清水久松が三崎の岡崎某から韓国水域で利益をを挙げたことを聞いた。
  2. 翌1882(明治15)年)、清水は「慶尚南道統営郡巨済島など三箇所に漁場を開き、一ヶ年の漁獲高四万円を上げ、大坂方面に販路を広げた」。
  3. この2項の「時期」は誤記ではないかと思われる。、「三瓶町史 下」の「人物」では次のように書かれている。
  4. 「明治37・8年戦役(日露戦争)後、清水久松は事業の海外発展を考えているとき、弟金松が南鮮(ママ)地方航海の折、巨済島周辺で広島の漁船が、片口いわし漁業で成功している話をきき、これを久松に伝えた。これに意欲を燃やした久松は早速清水嘉芽太郎に相談したところ、嘉芽太郎も興味を持ち、現地視察のため親子相携えて巨済島に向かった。現地で広島県漁民の操業を見たり話を聞いたりして、この事業が極めて有望だと判断した。そこで、釜山府の監督官庁に出向き、巨済島での操業と基地を玉浦里に置く願いを提出して許可を受けた。嘉芽太郎は帰国後、直ちに準備にとりかかった。網船は、手持ちのものを修理し、網と漁具は新調した。おうご衆も大賛成で、準備の完了したのは明治39年初夏であった。遠路を櫓でこぎ行くのは決して容易なことではなかった。途中、対馬に寄港して航行を続け無事玉浦里に着いた。早速、基地造りに取り掛かり、乾燥施設、仮宿舎など韓国人の大工、労働者を使い、嘉芽太郎の指揮で出漁を始めた。だが外地での事業に対する考え方の甘さから、出資は予想以上に多額となり、資金繰りのために現地はもとより、家族の生活上の辛苦は並大抵ではなかった。親子が、不成功を認め引き揚げの相談をしたこともあったが、事業内容を改善して継続することにした。明治四十三年に韓国が併合され、官公庁交渉は容易になり操業も自由になった。漁場遠くなってきたので、大型船を建造して漁獲のイワシを船上でゆで、これを玉浦里に輸送して、乾燥した。新船の能率化による大漁と人夫賃の節減により利潤はますます上がった。帰国後昭和6年から昭和14年まで村長として村政に尽した。」)
  5. 愛媛県でも「明治27年ー28年日清戦役後この方面への出漁者に対し、保護奨励し、県費をもってj補助金を足したので町内の出漁者が増加した。
  6. 判明している出漁者は次の通り。
    創業年次 出身地 経営者 漁場
    明治15年 二及 清水久松 巨済島
    明治30年 垣生 河内宮之進 巨済島
    明治33年 垣生 高木徳松 巨済島
    明治39年 二及 清水兼松 巨済島
    同年 二及 宮本与志雄 巨済島
    同年 二及 宮本善太郎 巨済島
    同年 二及 宮本円松 巨済島
    大正14 二及 清水嘉芽太郎 巨済島
    同年 二及 藤川純平 巨済島
  7. 二木生の組合が受けた県費補助は87円である。
  8. 1902(明治35)年、長早(二木生の支浦)の浜田愛太郎がは対馬近海に突き棒漁法があることを知り、」仲間とともにこの漁法を習得し操業を始めた。碑文には「(浜田愛太郎は)幼いときより漁業に従事していたが、近来同業が不振のため漁民のの困苦を憂え、救済に腐心した」と書かれている。新漁法・新漁場への挑戦の背景に地元漁業の不振があったことが分かる。
  9. 1924(大正13)年には対馬近海のカジキマグロ漁が不振になり、珊瑚採集業者からの情報をもとに台湾に出漁台北州の南方澳を根拠地に操業を始めた。(「三瓶町史 下」には「大正13年台湾総督府で漁業移民募集計画があることを知り、長早、二及の同志とともに応募して家族同伴で移住した」とある。」)
  10. しかし、台湾に移住しているものでないと漁業はできないというので1925(大正15)年ごろ家族を台湾に呼び寄せた。移住者は41名を数えた。
  11. 日露戦役後、その賠償の一つとして我国は沿海州等の入漁権を獲得した。三瓶町朝立の朝井猪太郎は1906(明治41)年カムチャツカ半島西岸コルサコフ付近の二ヶ所にサケ漁権を取得しウラジオストックに事務所を設けて漁船2隻で操業した。
  12. 朝井は1917(大正6)年のロシア革命で沿海州の漁業権を失ったが、朝鮮元山付近数ヶ処の漁場を得て大敷網漁を営み、サバ、サワラなどを漁獲、1945(昭和20)年終戦まで操業した。