2007年3月3日
「移動漁村愛媛村」について
報告レジュメ
老馬新聞

近代史文庫での報告レジュメ 
移動漁村「愛媛村」について  


1 『朝鮮水産開発史』(吉田敬市著・1954・朝水会)の資料から


 日本が韓国を併呑したのは1910(明治43)年であったが、これよりずっと早くから日本の漁船が密漁的に、あるいは合法的に韓国沿岸に進出して魚をとっていた。仕事が終われば日本に帰ってくるので「通い船」ならぬ「通い漁」つまり「通漁」と呼ばれていた。
  当時の香川県の漁民の収入は全国的な水準の三分の一程度で貧しい暮らしを強いられていたそうだが、彼らは韓国沿岸に新世界を求めて進出したのだった。岡山県、広島県、山口県など瀬戸内海諸県の漁民も活発に「通漁」を行った。当然愛媛県の漁民も韓国沿岸へ乗り出した。『朝鮮水産開発史』(吉田敬市著・1954・朝水会)資料によれば次のような通漁状況であったそうだ。


二名信用組合
(宇摩郡二名村※1954(昭和29)年川之江村に編入)
進出海域=木浦・仁川・龍岩浦(鴨緑江河口か)


川之江信用組合
(宇摩郡川之江町)
進出海域=上に同じ


新居浜遠海出漁組合
(新居浜村)
進出海域=釜山、鎮海、龍岩浦沿岸


大島遠海出漁組合
(新居郡大島村新居浜市多喜浜沖合いの島)
進出海域=巨済島沿岸


西条北浜遠海出漁組合
(新居郡西条町)
進出海域=上に同じ


岡村信用組合
(越智郡岡村)
進出海域=江原道、慶尚南道沿岸


魚島信用組合
越智郡魚島村
進出海域=知世浦(巨済島の港)、旧助羅(巨済島一運面)


宮窪遠海出漁組合
(越智郡宮窪村)
進出海域=鎮海湾内


小部遠海出漁組合
(越智郡波方村)
出漁海域=釜山近海


大浜遠海出漁同盟組合
(越智郡近見村)
出漁海域=蔚山(ウルサン)、知世浦、鎮海湾


安居(あい)遠海出漁組合
(温泉郡北条村安居島北条港北西13.5km
進出海域=上に同じ


新浜遠洋出漁組合
(温泉郡新浜村松山市高浜町
進出海域=釜山、鎮海湾内


臥龍遠洋出漁組合
(宇摩郡三島村四国中央市三島町
進出海域=済州島


神山遠洋出漁組合
(西宇和郡神山村八幡浜市
進出海域=馬山近海


睦野出漁組合
(温泉郡睦野村明治22年睦月と野忽那で睦野村を構成した。)
進出海域=釜山近海


三崎信用組合
(西宇和郡三崎村)
進出海域=江原道、慶尚南道、および全羅道の海岸


神松名信用組合
(西宇和郡神松名村伊方町の明神、松、名取か)
進出海域=釜山、欲知島(巨済島の南西、南海島の南東の小島)、安島(麗水南面安島里か)


二木生信用組合
西宇和郡三瓶町二木生現西予市)
進出海域=巨済島、欲知島


三机出漁組合
(西宇和郡三机)
進出海域=釜山近海


川之石遠海出漁組合
(西宇和郡川之石村)
進出海域=釜山近海


玉津遠海出漁組合
(東宇和郡玉津村吉田町内)
進出海域=巨済島曳亀浦


日振灘同盟遠海出漁組合
(北宇和郡日振島)
進出海域=鎮海湾内


西外海遠海出漁同盟組合
(南宇和郡西外海村)
進出海域=釜山近海


弓削遠洋出漁組合
(弓削村)
進出海域=江原道、全羅南道沿海


愛媛県遠海出漁団体連合会
(愛媛県庁内)
進出海域=漆川島(巨済島北西・古戦場)、旧助羅(巨済島)


 

2「植民地朝鮮の日本人」(高崎宗司著 岩波新書 2002年)から抜粋

 

(ア)【Ⅲ戦争への強力と移民の奨励 日清戦争~韓国保護国化 1894-1905】の前文

 

1894725日、朝鮮の豊島沖で日清戦争が始まる(81日に宣戦布告)と、在朝日本人は、日本軍に対して積極的に協力した。なぜなら、日本軍が戦争に勝つことは清国の商人を追い払い朝鮮の経済権を握ることにつながるし、戦争に負けることは日本軍のみならず自分たちが朝鮮から撤退することにつながると思ったからである。

 

 戦争が始まると、中には帰国を急ぐものもあった。釜山の日本人人口は93年末に比して、一時は700人も減少した(権、一五九)。一方、戦争を奇貨として一旗をあげようと朝鮮に渡ってくる者も多かった。日本政府も、戦争をきっかけとして日本の勢力を朝鮮に植えつけようと日本語教師などを送った。戦線の北朝鮮への拡大に伴ってそこへ進出する日本人も増えた。

また、開港地の外へ武装して進出する商人も現れた。

 

 戦争を有利に進めていた日本は、日本円銀を朝鮮の法貨と認めさせた。これによって、日本銀行兌換券が朝鮮で本格的に流通するようになった。また、日本軍が日本紙幣を大量に持ち込んだので、その流通量も飛躍的に増加した(朝鮮銀行史研究会、二〇)。

 

 こうした日本の影響力の拡大にともなって、早くも釜山を日本の植民地のように考える人も出てきた。『読売新聞』に復職した中井錦城は、釜山の知人の住所をわざわざ「長崎県釜山町」と書いた郵便物を送って、それがちゃんと届いたことを愉快かった(鹿野、ハ)。

 

 日本の勢力が強まると、大韓帝国(1897年に改称。以下、韓国と略称する)政府は列国勢力均衡策を採り、開港地に日本以外の列強の勢力を引き込むべく、木浦・鎮南浦・馬山・城津・群山を自主的に開港し、平壌を外国人に開放した。

 

 1900年前後、日本では、朝鮮移民論が盛んに唱えられ、荒蕪地開拓・移住漁村建設が叫ばれた。それは、日本の過剰人口のはけ口を朝鮮に求めるものであっただけでなく、日露戦争に備えて、日本の勢力を移植しようとしたものでもあった。そうした中で鉄道の建設も進められた。

 

 0405年の日露戦争では、再び在朝日本人の協力が目立った。そして、戦争が終わると、日本は韓国を保護国とし、日本人は我が物顔に韓国を閑歩するようになっていった。

 

 ところで、94年末に9354人だった在朝日本人は、日清戦後の95年末には12203人へと1年間で2949人も急増した。しかし、それから1900年末の15829人までは5年間で3526人しか増えなかった。ブームが終わったのである。しかし、00年末から05年の末までには、1万5829人から42460人へと三万人近くも増えている。再び、韓国移民ブームが起こっていた。

 

(イ)移住漁村-その一

 先駆的な移住漁村としては、一八九九年、愛媛県の支援で巨済島の長承浦に建設された愛媛村がある。後述するように、巨済島は、日本海軍が鎮海に軍事基地を建設するにあたって、その基地としたところであった。海軍は当初から、移住漁村を将来の兵姑基地とみなしていた。

 

 県の支援を受けて建設された移住漁村はその後も増加した。○五年四月、馬山の旧ロシア専管租界に建設された千葉村もその一例である。漁獲量が予想したよりも少なく、風土病の脚気でT一人が死亡するなどして失敗に終わっている(高林、二五)。

 

 移住漁村があちこちで建設されるようになったのは、日露戦争のころからである。まもなく三大移住漁村として知られることになる慶尚市道の絶影島・方魚津・長承浦はいずれも日露戦争前後に発展している。なお、一〇年一月現在の三つの村の戸口は、それぞれに二二七戸・ハ六二人、一三五戸・五五〇人、T一〇戸・四〇〇人である(高ゾ入圭一九)。

 

 背景には、

・瀬戸内海や九十九里沿岸などでの魚群の払底、

・瀬戸内海の商業・廻船業者の没落(木村、九三年、三一)、

・植民地移住の盛行、

・「東亜政策の観点から、朝鮮に於ける移住漁村の建設は緊要欠くべからざるものとなった」ことなどが挙げられる(古田ノ面七圭一四八)。

・さらに付け加えれば、農商務省が○四年に技師を派遣して朝鮮の漁業事情を調査し、翌年に出された報告書の中で、移住を奨励したことも挙げられる(高、二五)。

3 『愛媛県史』から

 

1905年日本帝国は韓国を保護国とし統監府を置いた1907年からは日本人顧問が韓国内政の全般を支配するようになり、この翌年1908(明治41)年には韓国漁業法が発布され日本人にも漁業権が認められることになった。

ただし、この権利は韓国居住日本人に限られた。これがきっそれまでの「通漁」方式から「移住漁村」方式に転換することになった。これは日本帝国の殖民政策でもあった。

泗川市三千浦東錦里八場浦(パルジャンポ)に移住漁村「愛媛村」が建設されたのは愛媛県南部内泊の指導者山本桃吉の申請によるもので、愛媛県史によれば、1909年(明治42)年、1910(明治43)年という韓国併合のまっただなかに、建物建築費の7割、土地購入費用の3割を県費で補助するという愛媛県の大盤振る舞いによって現地に24戸の建物が建てられ、1911(明治44)年には内泊の24家族、93人が入植した。

 

 

 

4 愛南町内泊での聞き取り(省略)

5 訪韓辺地調査

BR> 6 海南新聞の記事

 

 

1908(明治41)年1月25
韓国移住出願者
来る四月までに韓国に移住して漁業に従事する見込にて補助金下付を願い出たるものは越智郡宮窪町に二戸、西宇和郡神松名村に二戸あり 昨日付にて承認されたりと

24日 韓国拓殖会社計画
近く設置さるべき同会社の移民方針は 毎年約四万人及び之に伴ふ家族を移植する計画にて 追ては韓国駐屯軍の如きも之を屯田兵組織になさんとするにあり 又金融機関として小規模の農工銀行の如きものを三四ヶ所に設置すべきといふ 

 

25日 韓国暴徒の檄文
韓国暴徒の中 慶尚、忠清二道にありし儒生等の一段は討伐隊の為に逐はれて 全羅南道に入りしが其の首領株には前観察使及び解隊将校あり 途与1千名に達すれば全羅南道より日本人を悉く放逐せん計画成りおれり と声言し居れり 彼等が各地に公示せる檄文の綱領は大要左の如しと
一 日本人を全南より駆逐すること
一 日本人を斬りたるものに賞ある事
一 日本人の内地経営を根本的に破壊する事
一 一進会員若しくは斬髪せる韓人は日本人を斬りて謝罪する事
一 義徒の所在地及び其状態を日本官憲に密告せる者は其一家を挙げ殺害し住家を焼払う事
一 義徒は軍資を調達する為め日本人商店韓人豪家を略奪すること

 

1908(明治41)年2月20日
韓国移住漁業
西条町大字明屋敷横井藤作、神野春吉、藤田儀太郎、矢野伊勢吉の四名は各一戸金五十円の補助を得て韓国に移住し漁業に従事することとなり来る廿一日出発する由。

 

同日 1908(明治41)年3月5
移住漁民根拠地選定
本県遠海出漁連合会にては今回韓国に於いて本県移住漁民の為に根拠地を作ることとなり来る十日頃赤松泰苞氏を派遣して其選定を為す由なり
(注:あかまつやすしげ 18541922 宇和郡川名津浦生まれ 長崎裁判所検事 初代畑地村<現津島町>村長を経て県会議員となる 南予の鉄道誘致運動にも活躍 宇和島地方における自由民権運動の草分け 以上「愛媛県百科大事典」による)