1908(明治41)年4月7日 

●韓国の暴徒
 韓国各地の暴徒は漸次猖蕨獗を極めつ丶あるも 彼等は銃器弾薬の欠乏を訴え居れば 昨年の如き騒擾は全然なかるべく 中には清国商人と気脈を通じ 上海及び安東県方面より銃器弾薬の密輸入を企て居る形勢あれば 今後これさへ防※(圧)するを得ば深く意に介するに足らざるべし と某当局者は語れりと

1908(明治41)年4月9日
●東洋拓殖事業方針
▲創立準備 東洋拓殖会社創立準備は 伊藤統監が本月十四五日頃京城到着と共に韓人側の創立委員千人の筈にて 之と同時に日本に於ても実業家貴衆両院議員学者官吏中より創立委員の任命を見るべく その人員日韓を合せ六七十人の多数に上るべしと云ふ その上にて定款の作製、株式の募集、創立総会を経て 総裁以下の役員の任命(並)に登記を終るは少くも今後尚三ヶ月の時日を要すと聞く
▲株式と外資 勿論株式の募集は五月金融緩慢の頃を見計ひ開始すべき予定なるが 既に今日より内密にて株式引き受けを申込む予約者ある程なれば 如何に財界不振の今日なればとて日韓両国に亘りて僅僅二百五十万円の資金を集むるは毫も困難を感せざるのみか 同株式の募集は相当の盛況を示すべきか、東洋拓殖の社債は政府の保証を与ふることに定めされたるは成るべく低利の外資を此方面に吸収するはずにて 井上侯 添田総裁等の同外資斡旋の内約ありと伝へらる 偖(さて)
▲経営方針 先づ拓殖の基礎として農業の振興を謀り 次で 之と連結すべき事業に着手せんとするに在り バルカン半島ボスニア拓殖の成功者たる墺国ファンカーライ氏の経営方針の如き 多大の参考資料を東洋拓殖会社創設に寄与したるが如し 勿論本年は土地測量其の他の諸準備に費され 第一回の本邦殖民は明年開始せらるべく その人員も多分三千名((一千家族))位の程度にて 徐々殖民規模の拡大を謀るべく 本邦移民には其の希望に基き 韓国に於ける定住地を選択せしめ 拓殖会社は一家族に対し 水田二町歩 畑一町歩 住宅、耕牛、種苗肥料、移民食糧の実物供給など移民一人に付き三百六十円の標準にて年賦償還の方法に因り 長期の貸付を為すべく 大蔵省は年賦償還の期限を二十二ヶ年ならしめんとし 会社側には十五年説を唱ふるものあれども 要するに渡韓移民は 年々五十円内外を払ひて 三十年後、中産地主たるの途を啓韓とするものなるが 東洋拓殖の創立は日清日露の二戦役に軍人軍属として足跡を韓半島に印せる農民に向つて 著しく反応を与へしもの丶如く 既に渡韓移民の申込を為るもの少なからず、拓殖会社直接の事業としては水害地の予防工事、旱魃田土の灌漑工事、模範農園の創立を始め 韓国綿花栽培協会其他の民業の補助、漁具漁船の改良、孵化場解説、造林等にして 燃料用として石炭採掘位は着手せらるべき模様なり 拓殖の土地は 主に韓人より買収せらるべきも 外に無期限借用に期すべき莫大の土地ある筈なるも 茲に明記するの自由を有せず 拓殖会社は其の資金の三分の一と割て金融資金とすべきと云へば在韓農業者は金融上利便を感ずべく 聊か恐慌の態なるべきは 韓人を相手に土地を担保として誅求に余念なき在韓邦人の高利貸連のみならんか
※最後の部分は、拓殖会社が金を貸し出すというので慌てているのは、土地担保の高利貸し達であろう、というのだろう。
1908(明治41)年4月20日
●暴徒の鉄道妨害 七日夜 平壌の南方十五哩なる京義線路上の丸太材を並べて列車を転覆せしめんと企てたる者ありしも 逸早く発見し得て幸に事なきを得たり 暴徒の所為と察せらる(京城発信)

2007年3月6日
海南新聞
明治41年
4月7日~日

老馬新聞