2007年月日
海南新聞
明治41年1月24日~25日
老馬新聞

※は不明文字

1908(明治41)年1月24日
清韓の陶器業
某氏談
●景徳鎮の陶業
清国江西省景徳鎮は九江焼きの産地にして東洋に 於て最も主たる陶器の産地なるが年々の産額四百五十万余の多きに上る、然るに製造所を見れば日本の陶器産地と異なり竈焼と塑造を各分業※なり、塑造は粘土原料の五六種を重ね之に水を混じて踏み 然る後木片を列ね意図を以て綴りたる塑に入れ 之が固結したるものを窯焼業者の許に運べば同業者は之を竈に入れ一竈七八人にて二昼一夜焚き竈出しをなし前後五日間にて製し終る。竈は煉瓦にて造られその組織頗る巧妙なり、竈に三種あり、柴竈と云へるは松木を焚くもの 毛柴竈と云へるは雑木を焚くもの、柴竈は上等品を焼く、毛柴竈は下等品をやく、柴竈は一竈毎に燃料((松))二百五十円を費やして得る所は一千一百円なり、その焼賃は四寸角のもの一個九厘五毛にして職人は一竈((五日間))六円乃至一円五十銭の賃金を得、其の竈の組織等は全く欧州のものと同じ、思ふに欧州にては此支那の陶業を見て模造したるものならん、日本にては近頃専ら西洋の式に倣ふも 隣国なる支那に数百年以前より斯くの如く発達したる工場あり、又其の分業の行はれ居るは大いに我邦の竈業者の学ぶ所あるべきと認む、西洋人は支那の風を見て取るべきは之を取り以て己を利し居れど日本人は支那と云へば一も二もなく蔑視するは誤れるものと云ふべきなり云々
●韓国の陶業
韓国には今より1千年李氏起こりし際には高麗焼の如き優等なる陶器製作されしが 其後政治の組織悪しく 一般の食器装飾品に陶器を用ひず 専ら銅製をのみ用ひ来りしため其発達を阻害し 古代の陶品なきのみならず 現下に於いても陶業更に振るはず、僅かに分院((京城東北方八里))、成川、城津の三ヶ所に陶器の工場あるのみ、是れとても頗る不振不整頓のものにて漸く瓦様の素焼を製出するに過ぎず 従て之が販売店も京城に一ヶ所、平壌に一ヶ所あるに過ぎず 然るに昨今韓人も銅版製食器の衛生上有害なるを認むるに至りたるを以て 漸く陶磁器の需要を増し来り 自国製の粗品より日本製のものを喜ぶに居たりたれば、近年肥前の波佐見又は藤津郡吉田村の算出品最も多く売れ 次で淡路焼、美濃焼※弗々売行くの勢いなり、目下日本人の陶器商は京城に七八戸、平壌に五六戸あり、而して韓人の使用する食器には五寸角位の飯椀を汁椀と小皿あり 其他の用具には三四尺の素焼水甕、漬物鉢、便器、祭事器等あり、彼等は別に形状、地質、意匠等の嗜好なく 只だ純白色にて黒班なきものにてさへあれば宜し、斯く韓国の陶業の幼稚なるは韓国よりせば嘆かわしきも 日本より見れば却て仕合せにて 我製品の輸出を益々盛んにし 前途の売行の有望なるを示すものなり、故に我邦の竈業者は宜しく韓国の用途を研究し其趣好に適するものを製造し大いに売込むの策をとらざるべけんや云々


1908(明治41)年1月24日
●大院君の改葬
京城孔徳里にある大院君同妃の墓所を京城より八里隔てたる坡州に移す事となり廿二日改葬式を行ひたり 当日は皇帝、皇后、太皇帝、厳妃、各親王は文武百官を随へ参列されたりと


1908(明治41)年1月25日
●韓太子滄浪閣行啓
韓国皇太子殿下には李宮相、宋農相、趙武官長以下各随行員 祝い御用掛等供奉 廿二日午前九時五十分新橋御発車 大磯滄浪閣に行啓相成たるが 滄浪閣に約三日間御滞在 其の間付近の箱根、鎌倉、横須賀、葉山等をも御遊覧相成り廿五日御帰京の筈なりと

同日 1908(明治41)年1月25日
●韓国移住出願者
来る四月までに韓国に移住して漁業に従事する見込にて補助金下付を願い出たるものは越智郡宮窪町に二戸、西宇和郡神松名村に二戸あり 昨日付にて承認されたりと


参考サイト

同日 1908(明治41)年1月25日
●愛媛県水産組合定款(承前)
第五十六条 本組合は遠海出漁奨励の為め諸般の調査を為し出漁者に対し便宜を与ふることあるべし