1908(明治41)年1月9日 

●内外在留人員増加
海外貿易の発達に伴なひ本邦人の外国に在留する者及外国人の来住するもの益々増加し 殊に日露戦役後両者共著しく増加し戦役前即ち三十六年中の本邦人海外在留数十五万三千七百八十五人、同期間外人の来住数一万二千七百〇九人を戦後即ち三十九年中に比すれば前者に於て 六万五千五百六十二人、後者に 於て三千八百五十名を増加せり 今去る34年以降の累計比較を示せば左の如し


本邦人海外在留(人) 外人在留数(人)
明治三十四年 1901年 65,073 13,424
明治三十五年 1902年 135,551 14,257
明治三十六年 1903年 153,785 13,709
明治三十七年 1904年 149,975 15,682
明治三十八年 1905年 184,492 16,732
明治三十九年 1906年 219,387 17,559
明治四十年 1907年 249,202 18,35

※明治四十年の外人在留数の「5」はかすれているので読み間違いかもしれない。

同日 1908(明治41)年1月9日
●在韓邦人の教育

在韓国帝国居留民教育及保育機関の現況左の如しと云ふ

学校則 校数 生徒数 教員数
専門学校 1 38 12
商業学校 106 12
高等女学校 3 176 32
小学校 52 7,329 220
幼稚園 5 453 14
62 8103 290

1908(明治41)年1月14日
●太皇帝の秋波
韓国太皇帝は近来日本観光の意を催せりとの説あり 俄かに信じ難きも 例の機敏なる観察眼よりこの際我が皇室に秋波を送るの最も利益多きを認め我が皇室の盛徳を借り政変以来甚だ不愉快に感ぜらる丶境遇より多少逸脱を試みん野心たるべし


※「太皇帝」は高宗、1907年ハーグの平和会議に使者を送り日本の支配の不当性を訴えようとし、日本によって退位を強制された。海南新聞は「韓皇太子」えお褒めちぎる一方で、太皇帝に対しては敵意をもって対しているようだ。

【韓国併合に関する条約】第三条 日本国皇帝陛下ハ韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔ヲシテ各其ノ地位ニ応シ相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ且之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スヘキコトヲ約ス


1908(明治41)年1月16日
●本邦免状受有外人
管船局にて昨年十一月末日の調査によれば外国人にして本邦の海技免状を受有せる総人員は合計三百五十二名なるが 内百七十八名は甲種船長、三十二名は甲種一等運転士、一名は同二等運転士、一名は丙種運転士にして
 又機関長は八十一名 一等機関士は四十三名、二等同上二名なり 更に亦之を各国別に為すときは左の数字を示せり

種/国 英国
イギ
リス
独国
ドイ
米国
アメ
リカ
丁抹
デン
マーク
瑞典
スウェ
ーデン
許威
ノール
ウェー
仏国
フラ
ンス
秘露
ペルー
韓国 和蘭
オラ
ンダ
墺国
オース
トリア
西国
スペ
イン
甲種船長 124 19 18 7 8 0 0 0 0 0 0 0
甲種一運 18 4 2 4 3? 0 0 1 1 0 0 0
同上二運 8 1 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0
乙種一運 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
同上二運 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
丙種運 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0
機関長 69 2 4 2 1 0 0 0 0 1 2 0
一等機関士 33 4 1 4 0 0 0 0 0 0 0 1
二等同上 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

1908(明治41)年1月19日
●韓太子御用邸
東京麻布六本木一番地(旧佐々木伯爵邸)邸宅は韓国皇太子殿下御用邸に充てらる丶ことに定められ今後鳥居御用邸を称せらる丶旨宮内大臣より公達ありたり

同日 1908(明治41)年1月19日
●韓人東宇和に留学す
韓国統監府秘書官古谷久綱氏の厳父紀綱氏は東宇和郡下宇和村に在り 予て蚕業に熱心なる聞あることなるが 先頃自村製造の蚕種を韓国に輸出したる処、全国養蚕伝習所より二名の韓国人を留学せしめたる旨申込み来りたるより 直ちに引受くることとなり 来る三月来郡の上 下宇和村の養蚕家宇都宮定一氏の家に寄寓せしむる筈 然るに同郡農会は之を名誉とし 養蚕組合を下宇和村に設立することに内定せりといふ

※「古谷久綱」氏は宇和郡明間村生まれ。政治家。28歳で伊藤博文内閣で総理大臣秘書官。続いて韓国統監秘書官、枢密院議長秘書官。李王職御用係。(愛媛県百科大事典による)

1908(明治41)年1月20日
●外国人の韓国内地観
(コピーし直し)

1908(明治41)年1月21日
韓国の婚姻
(コピーし直し)

1908(明治41)年1月22日
韓太子御近状
短き日本文を作らせらるる


御幼年ながらも見聞を拡めんと遠き慮を抱かせられて本邦にご遊学の事定まり芝りきゅうに朝夕を送らせ玉ふ韓太子の御※状を聞くに京城より随伴せる学友趙大鎬
(?)(十五)徐丙甲(十四)厳柱明(十四)及び京城小学校に在りて常に主席を占め 伊藤統監が該校に臨みて演説などありたる際は常に答辞の才気 少年とは思はれず 統監の贔屓をなりし同地日本商人の子曾我満(十四)等と終日御勉強に御余念も無き由なるが 近々御教育係として末松子爵の推薦により元第五高等学校長理学博士桜井房記氏は重職を拝命し去る六日より日々芝離宮に伺候し殿下に日本語を教へ申上げつつあるが 研修の念御幼年とは思はれぬ程熱心にて 御進歩も早しといふ、さて太子の学習院御入学は来る三月頃なれば諸般の準備として 国定教科書は勿論その他韓国に行はる丶教科書と参照し御教養申上げんと目下夫々調査中なりと伝えらるるが 右は全く誤報にて 今桜井学士の語る所を聞くに 殿下には未だ学習院ね御入学とも 将た他に適当なる御方針をせらる丶かさへ未定にて 日韓小学教科書参考の如きも跡形もなき誤報なりと 尚ほ目下御教養の程度は単語を綴りて短き日本文を作らる丶等にて まだむづかしき事とては御入京の日も浅き事とて御教養申上げざる由なるも 既に韓地にて侍従等より日本語を御覚えありし程とて御進捗並々ならずといふ




2007年月日
海南新聞
明治41年1月9日~22日
老馬新聞