1908(明治41年)1月5日
●新年と韓太子
韓国皇太子殿下は始めて我国の新年を迎へ給ふとて午前高等官等の拝賀を受けさせられ午後賜鐉の儀あり 御本国なる太皇帝陛下には電報にて祝辞を申上げ給ふと承る 殿下には愈々御壮健にて 日々午前中厳東宮侍従より日本語を学び給ひ 午後御学友金陪従武官等と共に御庭に出でさせられ空気銃にて小鳥を射給ひ 又先頃 打毬御覧の砌 御手許に献じたる毬及び毬杖を取らせられ御馬場にて打毬の戯を為し給ひ 九時半或は十時に御床に入らせらる、殿下の聡明は今更申すまでも無きことながら日本語の御上達 御付の人の驚く計にて 御学友等との御物語には大抵日本語を用ひさせ給ふが 来四月学習院へご入学の御準備として 更に日本人の日本語教師を召し給ふ筈、御本国 太皇帝 皇帝両陛下とは 日々電報にて御通信あり 両陛下は一方ならず 御安心あり 且つ御満足の御模様なりとぞ
1908(明治41年)1月7日
●伊藤侯へ御歌
高輪御殿に在ます常宮周宮両内親王殿下は予て敷島の道に堪能に在ますが 今回伊藤公が老躯を提げて内外の政務に鞅掌し 別けて韓国の施設其の功を挙げたるを嘉し給ひ 御水茎のあと麗しく左の御歌を賜りたり
伊藤公の勲功を思ひて
昌子内親王歌
ふぢの花咲きそめしより冬かれし鶏の林の春を知るらん
房子内親王
高麗百済新羅の嵐荒くともふぢのかつらにさはるべしやは
伊藤公は右の御歌に感激措く能はず 二日滄浪園新年宴会に際し夫人、末松子同夫人等列席の上拝読披露式を行ひたりと
同日 1908(明治41年)1月7日
●伊藤統監鶴の一言
▲我輩は猥りに伊藤統監の政策に随喜渇仰するではない、ツイ此頃或る官人が我輩に語つた統監の一言の如きは大いに敬服すべき価値ありと思ふ、(そ)は先頃韓国に於ける司法制度を確立するに際し 統監の配下たる法制家と称する官僚集り 裁判所の審級を定むるの議になつたところ 三審級にせん、イヤ三審級はマダ韓国には早い、我台湾のやうに二審制度が可い、と其論拠は単に韓国の旧習故慣やら土宜人情のみから説き衆議区々で容易に纏まらない。
▲で結局統監の意見を請ふた所が 統監は直ちに、諸君の説は強ち悪いとはいはんが 要するに余り近視眼の方で困る、少しは日韓協約の精神のある処を考へ、遠大の思想を有って貰ひたい、言ふ迄もなく韓国に於ける治外法権は早晩撤廃せんといけない、之を撤廃するに付きての前提要件の第一は、即ち裁判制度で、其制度は現今多くの文明国の採用する三審級制を採らなければなたぬ 分かりきつた事ではないか と云はれた
▲此言を聞いた所謂法制家と云はるる官僚の面々は、何れも初めて統監の政治的眼光の明を賛嘆して、三審級制を採る事と決したサウジヤ。