2007年2月20日
海南新聞
明治41年1月4日
老馬新聞


現在の「愛媛新聞」の系図は

 ●「本県御用愛媛新聞」(日刊紙 明治9から)
⇒●「海南新聞」(日刊紙 明治10から)
⇒●本県自由党の前身公共社機関紙となる(明治11年から。 立憲改進党も明治21年「予讃新報」を創刊して対抗、翌年「愛媛新報」と改題)
⇒●香川熊太郎社長、日刊紙政党化の現実を憂い、中立を標榜(大正14年)、以後言論の自由を守る姿勢強し
⇒●戦時下の言論統制によって「伊予新報」「南予時事新聞」と統合、「愛媛合同新聞」となる(昭和16年)
⇒●「愛媛新聞」と改題(昭和19年3月)

と云うものだそうだ(愛媛県百科大事典から)。

今この中の「海南新聞」を読んでいる。

1908年1月4日(確認の要あり) 
太田と大邱 於京釜線大邱 今井蓼洲
(一)日本人の膨張力

今歳も最早余す所僅かに五日であるが是が日本ならば晦日前で、債鬼の防御策に苦心惨憺の真最中であるが、呑気な韓国では師走らしくもなく 唯だ膚を裂く様な厳寒を如何にして避けようかと苦心するのみで大概の人は避寒旅行に出懸ける時季であるが、筆硯に忙しき我々などは到底も避寒所の沙汰ではない、然るに京釜線の太田居留地で僕を招いて太田居留民大会を開くとの通知が内藤民長から来た、これ何寄りの避寒旅行だと早速編輯長山崎源一郎氏を伴ふて二十二日急行列車で太田に出発した。
太田停車場は京釜線の中央に位する大停車場であるが今から四五年前までは野原で韓人の家屋さへ無き一荒原であつたが今は日本人の在留するもの一千五百人、立派な道路が十字形、又は碁盤の目の様に秩序正しく形造られて其所には日本風の大厦高楼が軒を列ねて居る、日本児童を収容せる高等尋常小学校がある、浄土宗の寺がある、病院がある、倶楽部がある、妓老楼が二十軒もある、郵便局がある、公園がある、二台の完全な消防機械がある、大概の文明的の設備は立派に整つて居る、然も是が三十七年迄は草茫々たる荒原であつたと聞かば何人も日本人の膨張力、発展力に驚かざるものはあるまい。

【「明治37年」関連史実 「朝鮮半近現代史年表 市川正明編」より引用】
1904(明治37)年
1月23日 韓国政府、日露開戦に厳正中立を宣言
2月2日 日本軍が昌原、釜山両電報局と占領
2月9日 仁川沖で日露両国海軍衝突
2月23日 日韓議定書調印 有事においては日本政府は軍略上必要な地点を臨時収容し得るなどが定められた。
3月7日 韓国駐剳軍成立(司令官に陸軍少将原口けん済)
3月17日 日本枢密院議長伊藤博文、特派大使として来韓 韓国皇帝に国書奉呈
3月21日 日本軍、鎮南浦に上陸
7月20日 日本、韓国の治安維持を日本軍が担当することを通告
8月22日 第一次日韓協約調印
9月 李容九ら一進会を組織
1905(明治38)年
1月1日 京釜線営業開始
5月26日 京釜鉄道開通式挙行
7月20日 元容八、忠清道、江原道等で義兵が蜂起
8月12日 日英同盟調印
9月5日 日露両国間にポーツマス条約調印される
11月17日 第二次日韓協約 韓国の外交権を剥奪
11月18日 全商店一斉休業
12月21日 伊藤博文、初代韓国統監に任命される