2007年2月18日
海南新聞
明治41年2月1日~8日
老馬新聞

2月1日 韓国貴夫人と日語
韓国皇后日語研究の事は既記の如くなるが 尚皇后の両兄夫人及び伯母愈氏夫人も廿八日より昌徳宮に参内 陛下と共に日語を学ぶ 其他の貴夫人も同じく修学の議ありと


【参考関係史実】
1907(明治40)年
7月24日第3次日韓協約調印 韓国内政の全権を掌握


2月4日 韓国拓殖会社計画
近く設置さるべき同会社の移民方針は 毎年約四万人
及び之に伴ふ家族を移植する計画にて 追ては韓国駐屯軍の如きも之を屯田兵組織になさんとするにあり 又金融機関として小規模の農工銀行の如きものを三四ヶ所に設置すべきといふ 


同2月4日 聖上と韓太子
去月廿九日韓国皇太子殿下御参内の砌 我が天皇陛下より種々御尋ねの義につき 韓国皇太子殿下は流暢な日本語にて 御答へあらせられ 御親子も啻(ただ)ならざるほど打解けさせられ 御物語ありし由  いまその御尋ねの次第を漏れ承るに 先づ陛下より 殿下東京御滞在以来 気候の変化と風土の異なるものあるに関せず 健全にあらせらる丶と聞き甚だ之を喜ぶ との意味の御錠(ゴジョウ)に対し 韓太子殿下は日本語にて 有難うございます 陛下の庇蔭(おかげ)にて大変丈夫でございます と答えさせられ 次に 陛下より 日本語は日々に進み 又事物の目に映ずるものは自国と異同あると弁知せらる丶事定めて多からんと存ず との御意味の御錠に対し 韓太子殿下は 日本語も毎日少しづつ覚えまして 色々珍しきことが分かります と述べられ 更に奮励益々勉強怠りなく学業に上達されことを望む との仰せに対しては 有難うございます 必ず勉強いたします と答えられたれば 陛下は非常に御悦びにて その言葉の巧みに上達されしを賞せられ 殿下も 非常に陛下の御褒辞を辱けなく悦ばれし由 これと同時 陛下よりは 宮内部大臣に対して 韓国両皇帝陛下並びに韓国皇室の万歳を祈り過日の御親書に対する御答書は伊藤統監帰任の節を以てすべしとの旨を仰付けられし由

【参考関係史実】
1907(明治40)年12月5日 韓国皇太子英親王李垠、東京に留学


同2月5日 韓国暴徒の檄文
韓国暴徒の中 慶尚、忠清二道にありし儒生等の一段は討伐隊の為に逐はれて 全羅南道に入りしが其の首領株には前観察使及び解隊将校あり 途与1千名に達すれば全羅南道より日本人を悉く放逐せん計画成りおれり と声言し居れり 彼等が各地に公示せる檄文の綱領は大要左の如しと
一 日本人を全南より駆逐すること
一 日本人を斬りたるものに賞ある事
一 日本人の内地経営を根本的に破壊する事
一 一進会員若しくは斬髪せる韓人は日本人を斬りて謝罪する事
一 義徒の所在地及び其状態を日本官憲に密告せる者は其一家を挙げ殺害し住家を焼払う事
一 義徒は軍資を調達する為め日本人商店韓人豪家を略奪すること


【参考関係史実】
1907(明治40)年
7月24日第3次日韓協約調印 韓国内政の全権を掌握
7月31日韓国皇帝、軍隊解散の詔勅を発す 
8月1日解散式 侍衛隊の一部日本軍と交戦
8月5日原州鎮衛隊、蜂起 原州占領
8月9日江華鎮衛隊江華城占領
8月27日純宗即位
10月7日日本、韓国に駐剳する憲兵に関する件を制定公布 韓国駐剳軍が朝鮮の警察権を掌握
10月29日 日本人及び韓国人に対する警察は韓国政府傭聘の日本人警察官に執行させることとなる。
12月5日韓国皇太子、東京に留学
12月6日十三道義兵隊長に李麟栄、軍師長に許薦就任
1908(明治41年)年
2月2日義兵将奇三衍逮捕

同2月5日 韓国暴徒彙報
去一日其筋に到着したる韓国暴徒討伐情報によれば▲全羅南道求嶺分遣隊(六十五名)は二十日夜竹筒(求嶺の北方約三里)にて十名余の賊を包囲し首魁以下四名を捕獲し小銃七を鹵獲せり▲黄海道スイコウ守備隊の討伐隊は廿二日午後一時四十分城北山付近にて賊約七十を攻撃し少なくも十余名を負傷せしむ 我兵一名軽傷せりと

同2月6日 韓京の大陰謀
信ずべき某所に達したる情報によれば 去月二十九日夜 玄暎運の住宅に暴徒の首魁たる許為の弟許薫外二名 玄と密会し 韓国現皇帝と前皇帝との間の接近について謀議する処ありたる由なるが 玄は今猶現帝の信任あり 且つ 前帝よりは大儒としての処遇を蒙れる許為の門弟として 嘖々たるものなれば 或は何等か 新陰謀を企つるにあらずや との説あり

同2月7日又は8日(後日確認すべし) ●韓国討伐隊の苦衷
韓国光州より派遣せる川水曹長の一部隊員 昌平付近にて約五十名の賊と戦闘すること五時間 遂に賊の包囲を受け 川本曹長以下二 名戦死し 一名負傷すとの報あり 光州より藤野中尉の一隊急行赴援せり