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梨本宮方子さんの生涯   久慈宮良子さんの生涯

方子妃は1901(明治34)年)、皇族の梨本宮(なしもとのみや)守正の長女に生まれた。現在の皇太后さまとはいとこの間柄になる。

 

 

 李王朝は最後の王・純宗皇帝が1910(明治四十三)年の日韓併合で廃位となり滅んだ。

良子(ながこ)
お誕生日1903(明治36)年3月6日

故 (久邇宮) 邦彦(くによし)王第1女子

  最後の皇太子・李垠殿下も満九歳だった1907(明治40)年、日本に連れていかれ日本に住んだ。  
一時は昭和天皇の皇太子時代に妃候補にあげられたこともある。  

1921(大正10)年

宮中某重大事件 皇太子裕仁妃決定をめぐる粉飾事件。内定した久邇宮良子の血統に色盲の恐れがあるとして、山県有朋らが婚約を壊そうと画策したが、2月の変更なしの発表で決着した。薩摩と長州の派閥争いがからんでいた。

    ご学歴など 1917(大正7)年皇太子妃にご予定のため学習院女学部ご中退  その後,宮邸内ご学問所にてご勉学
  1919年(大正八年)、日本支配に反対する大規模な抗日独立運動「三・一万歳事件」が起きている。民衆が「独立万歳!」を叫びながらデモをしたため日本側ではそう称した。韓国の歴史教科書によると犠牲者は「死傷者二万余人」という。  この事件の発生には元皇帝・高宗(李太王)の急死が微妙に影響している。高宗はこの企画の最初に紹介したように「ハーグ密使事件」(一九〇七年)で日本の怒りを買い退位させられていたが一九一九年一月二十一日、六十六歳で波乱の生涯を終える。  死因は脳いっ血というのが日本側の見立てだったが、日本当局による毒殺とするウワサが広く流布され民衆の感情を刺激した。国葬は三月三日。これを前に一日の土曜日に合わせて独立運動が計画され、全国に広がった。 ご結婚関係 勅許        1922(大正11)年大正11年6月20日 納采の儀(ご婚約) 

朝鮮王朝(大韓帝国)最後の皇太子、英親王・李垠殿下と方子妃の結婚式は父・高宗の死や三・一事件などで翌年に延期された。二人の人生はスタートから波乱含みだった。

李垠殿下と1920年(大正九年)に結婚する。日本の植民地支配を確固とするための「政略結婚」であり、当時の言葉でいえば「日鮮(日本と朝鮮)融和」のためだった。

   

夫妻は1922年(大正十一年)、生まれて八カ月の長男、晋殿下を連れて初めて韓国に里帰りしたが、その際、晋殿下が異物を吐きながら急死する。

 方子妃は自伝「流れのままに」で「日本人の血がまじっているというただそのことのために、非業の死を遂げなければならなかった哀れな子…。もし父王さま(高宗)が殺されたその仇が、この子の上に向けられたというのなら、なぜ私に向けてはくれなかったのか…」と書いている。

  1922(大正11)9月28日 ご結婚
   

昭和天皇第1皇女子 成子(しげこ)内親王(照宮)殿下  

1924(大正14)年12月6日ご誕生  昭和18年10月13日ご結婚(故東久邇盛厚夫人)  昭和36年7月23日薨去   

二男の李玖殿下は1931(昭和六年)に生まれる。  

昭和天皇第2皇女子 子(さちこ)内親王(久宮)殿下  

1927(昭和2)年9月10日ご誕生  昭和3年3月8日薨去   

    昭和天皇第3皇女子 和子(かずこ)内親王(孝宮)殿下  昭和4年9月30日ご誕生  昭和25年5月20日ご結婚(故鷹司平通夫人)  平成元年5月26日薨去
    昭和天皇第4皇女子 厚子(あつこ)内親王(順宮)殿下  昭和6年3月7日ご誕生     昭和27年10月10日ご結婚(池田政氏夫人)   
    昭和天皇第1皇男子 明仁(あきひと)親王(継宮)殿下  昭和8年12月23日ご誕生  昭和34年4月10日ご結婚  昭和64年1月7日ご即位
    昭和天皇第2皇男子 正仁(まさひと)親王(義宮)殿下  昭和10年11月28日ご誕生       昭和39年9月30日ご結婚(常陸宮)   
   

昭和天皇第5皇女子 貴子(たかこ)内親王(清宮)殿下

 1939(昭和14)年3月2日ご誕生  

1960(昭和35)年3月10日ご結婚(島津久永氏夫人)

     李垠・方子夫妻が独立韓国に帰国できたのは、解放から二十年近くもたった1963年(昭和三十八年)のことだった

 李垠・方子夫妻の遺児で日本に住んでいた李玖氏(六五)が永久帰国した。李王家を生んだ全州李氏の同族会「全州李氏大同宗約院」の総裁という肩書だが、国からは何の配慮もない。