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目次に帰る
2006年11月9日

移住漁村「愛媛村」


以下、本日発送した日朝協会本部機関紙「日本と朝鮮」12月号のための記事原稿である。

 
既報のよいうに、日本コリア協会・愛媛は10月2日から8日まで韓国統営市道南(弥勒島)、巨済市長承浦(巨済島)、泗川市三千浦を訪問し、日本領「朝鮮」時代にあって日本の「移住漁村」の経営に当たった愛媛県人の暮らしのあとをたどった。

調査旅行の結果を報告するに先立って「移住漁村」出現の背景を簡単に述べておく必要があろう。日本の漁民の朝鮮沿岸への進出は朝鮮併呑以前から盛んであったが、当初は日本の港から朝鮮沿岸部への通い漁業、つまり「通漁」がほとんどであった。

愛媛県史によると、愛媛県漁民の朝鮮水域への進出の1881(明治14)年に始まっている。最初の時期は「密漁」であったが、1883(明治16)年の日鮮貿易規則第41款や1903(明治36)年の日韓漁業条約改定などをへて、通漁は漁業税(入漁料)の納入を条件に合法化され、漁業区域も拡大され、最終的には韓国の全行漁区域に日本の漁船が進出することになったという。

こうして愛媛県から朝鮮水域への通漁漁民は1904(明治37)年には1004人、1025(大正元)年には1599人に達するようになった。

1905年日本帝国は韓国を保護国とし統監府を置いた1907年からは日本人顧問が韓国内政の全般を支配するようになり、この翌年1908(明治41)年には韓国漁業法が発布され日本人にも漁業権が認められることになった。

ただし、この権利は韓国居住日本人に限られた。これがきっそれまでの「通漁」方式から「移住漁村」方式に転換することになった。これは日本帝国の殖民政策でもあった。

泗川市三千浦東錦里八場浦(パルジャンポ)に移住漁村「愛媛村」が建設されたのは愛媛県南部内泊の指導者山本桃吉の申請によるもので、愛媛県史によれば、1909年(明治42)年、1910(明治43)年という韓国併合のまっただなかに、建物建築費の7割、土地購入費用の3割を県費で補助するという愛媛県の大盤振る舞いによって現地に24戸の建物が建てられ、1911(明治44)年には内泊の24家族、93人が入植した。内泊での聞き取りにおいても「三千浦に着いたら家が準備されていた」との証言があった。

まさしく韓国植民地化のスタートとなる事業であった。