「愛媛村」の残影 1


韓国泗川市東錦洞八浦を訪ねた


下の地図は「大正時代の八浦の様子である。青い部分が海で南側になる。左下の山が「団体山」、左下の山が「魯山」。明治44年、二つの山の間の砂浜に官費で住居が建てられ、「移住漁村」奨励策に応じて愛媛県内泊の人たちがここへ移住してきた。。



下の写真。手前の川は愛媛県内泊出身者が「洗濯川」と呼んでいた川である。この場所では川は埋立地を流れている。川の向こうの岡が「団体山」、今は「トンチャン」(統倉)と呼ばれているそうだ。岡のふもとに、日本人が設けた統営郡の中心的倉庫「《》営《》庫」があった。戦前の名前が残っているわけだ。この倉庫は現在も残っている。



下の写真。内泊での聞き取りで「大潮の時は歩いて渡れた」と言っておられた島「モクト(訳すと「頭島」:頭の格好をしている)」である。今は陸地と島の間に埋立地が作られ写真のような光景になっている。土地の人は年に一回、正月の大潮のときだけ歩いて渡れるよ」と教えてくれた。



「洗濯川」にかかるクムフン橋。クムフンは「錦興」か。「洗濯川」は「錦興川(クムフンチョン)」という本名に帰っている。



前方に「団体山」。家が並んでいるあたりまで海だったそうだ。



「団体山(トンチャン)」から西を見下ろす。右手前の三、四軒の建物が日本人が建てた「東倉(トンチャン)」と呼ばれた倉庫である。日本の建物は屋根がまっすぐ水平に作られているのでわかりすい。60年〜70年昔の建物だが今も残っているのであった。町の向こうに見える岡は「魯山」、今は公園になっている。いすれも「大正時代の地図」のとおりである。