目次に帰る
2006年9月21日

内泊(愛南市)訪問


10月2日から日本コリア協会・愛媛会員9名は韓国へ行く。韓国南部の巨済島、三千浦に明治時代の植民地、移住漁村「愛媛村」についての調査旅行だ。
今日は、漢那氏とともに「愛媛村」の出発地である内泊を訪ねた。30日に東会長と一緒におこなう「本調査」の下見である。以下「植民地朝鮮と愛媛の人々(仮称)」編集委員に当てた報告である。名前は仮名とした。

尾上です。昨日漢那氏とともに「愛媛村の里?」愛南市内泊へ行ってきました。9月30日に東会長などと行う本調査の先遣隊です。さすがに遠いところで朝8時40分ころ出発して帰松は午後8時10分になりました。しかし、実りゆたかな一日旅になりました。
 
内泊に到着するや、公民館の駐車場に車を置いたのですが、韓国のことわざ「出かけた日がちょうど市の日で・・・」のとおり、なんとちょうどこの日が内泊地区の敬老会でした。運のいいことにこの地区の敬老会は台風の影響でこの日に延期になっていたのでした。「おー!お年寄りが集まってるぞー」と喜びいさんで玄関に入り挨拶すると区長さんが応対してくれました。事情を話したところ、さっそく会場にいた山本桃吉の縁者を紹介してもらえました。
 
1)まず、親戚筋の女性Tさんが敬老会のお世話が一段落したというので私たちの話にのってくれました。Tさんは山本桃吉の弟の孫・Kさんの奥さんです。Tさんの話では、御荘に山本桃吉のお孫さんがいらっしゃるのだそうです。それがRさんです。去年か今年かS社を定年退職されいまも嘱託かなにかで仕事をしておられる方です。
 
2)Tさんの案内で山本桃吉のお墓を訪ねる途中の神社の玉垣に「愛媛村」の指導者・山本桃吉の名前を確認しました。
 
3)山本桃吉が建立した墓を確認しお線香をあげました。墓の側面に「・・・・明治廿八年八月廿九日山本桃吉建之」とあります。山本桃吉本人の墓は未確認です。
 
4)公民館に帰ってみると、今度はなんと、山本桃吉とともに三千浦の愛媛村で終戦まで暮らしていたという内泊在住のJ(84歳)を紹介されました。敬老会に参加しておられたのです。
 
5)Jさんは明治44年に三千浦へ行き、公の補助金で20戸の家を建てたそうです。
 
6)Jさんは終戦で帰国(23歳か)。父上の仕事の関係(?・・・カラオケの演奏中でききとりにくかった)で県外のS市に住み、その後愛媛県U市などで税理士の仕事をされたのち内泊に帰られ、昨年まで区の役員を勤めておられたそうです。

7)Jさんたちは「三千浦会」をつくっておられ当時の関係者と交流を続けておられすそうで、最近会誌「三千浦」という文章を発表されたところだそうです。30日訪問したときには資料が見せられるように整理しておいてくれるそうです。
 
8)Jさんの姉上は、山本桃吉の長男・Gさんの奥さんで、御荘におられるRさんの母上というわけです。
 
9)敬老会会場で踊りの準備をしていたおばあちゃんが「わたしも三千浦にいたんですよ」と話してくれました。Nさんです。当時の記憶ははっきりしておられるようでした。
 
10)集落の入り口にお墓がありますが、その手前に「迎日湾遭難慰霊碑」がありました。本文部分が崩落して読み取れない状況です。なんとかしたいですね。
 
11)合併の余波で郷土史の資料がどうなっているのか、船越にある支所や公民館の係員はまったくわからないそうです。公民館長が不在だったため、後日確認することにしました。これは私が電話してみます。公民館の電話は0895-82-0069。
 
以上、うろ覚えもありますが昨日の先遣隊の報告でした。漢那さん、ご苦労様でした。