忘 暮 楼 日 記
2006年4月4日

早世


 長崎の親戚の青年が急死した。26歳の若者の思いがけない死であった。長崎まで駆けつけたものの青年の両親や兄弟姉妹たちには慰めの言葉が見当たらなかった。

 空を行く天人ですら業が尽きると地上に落下するそうである。この青年の業が尽きたと考えるしかない。


  私はなぜか人の死に対する哀悼の気持ち、悲嘆する遺族への同情心が薄い。人が死ぬのは当たり前のことのようについ感じてしまうのである。


 葬儀にはいとこたちがたくさん集まった。みな二十歳〜三〇歳の若者で重たい棺を担ぐ人手にも不自由はなかった。
 


 考えてみれば今から60数年昔なら、26歳といえば死に盛りだった。
日本国憲法は人の別れ方をおおきく様変わりさせているのだ。私は通夜の席で酒の勢いで青年の父親に、言ってもしょうがないことだが、こんなことを語った。

「息子の親としてのあんたには語るべき言葉がないが、政治家(彼は地方の政治家である)としてのあんたには言ってみたいことがある。それは、26歳という歳で死ぬことは今でこそ早世と言われるが、60数年昔だったら死に盛りだったということだ。今のあんたの悲しみによって60数年昔の親たちのおびただしい悲嘆を理解してやってほしい。それはきっと政治家としてあんたの力になるはずだ。」

 フィリピン戦線で特別攻撃隊として自爆攻撃に飛び立った関行雄は23歳だった。台湾沖の東シナ海で米潜水艦の攻撃で戦死した沢村栄治は27歳だった。

 試みに厚生労働省の統計資料を見てみると、1940年における25歳から29歳の青年たちの死者が2万3849人であるのに対して、2002年のそれは3186人、その比は100対13である。


 それにしてもわれわれが生きているということはどういうことなのだろう。
 私の体で私の考えでなんとかなるところは、額の筋肉、まぶた、目の方向、鼻の穴の広さ、唇の形、舌の位置、あごの位置、首の180度回転、手や腕や指の動き、覚醒時の肺臓の動き、胴体の180度回転、腹部の筋肉の動き、しりの花の筋肉、両脚、両足、足の指くらいか。
 あとのすべては、私の力ではどうにもならない、私の意識から独立した闇のなかの営みである。その闇の中の営みが私を生かしたり殺したりする。明日は常に闇の中から生まれているのであった。

 なのに私はいつもその闇の存在を忘れ、自分の意志で生きていると思っているわけである。若者の思いがけない死はそんなことをも考えさせる。


  収骨室で骨を拾う。若者はからりと焼かれていた。私は残された美しい骨のことより、焼き捨てられた青年の希望や焦りや欲望を考えた。それらのすべての煩悩はこの日その働きをすべて停止した。それはやはりすばらしいことなのだと思った。