忘 暮 楼 日 記
2006年3月28日 5月5日補筆

愛媛と朝鮮


 高崎宗司さんとの出会いで触発されて、3月20日から約一週間かけて『愛媛百科大事典 上・下』(愛媛新聞)の通覧に取り組んだ。本書に掲載されている朝鮮関連の事項を書き抜いてみたのである。以下、ちょっと珍しい資料になっていると思う。
さいのおかこふん 祭ヶ岡古墳  西条市氷見石岡神社境内。石棺内からは須恵器、直刀、鉄…棺外からも須恵器の器台… 450
こうらいいけ 高麗池  今治市旦にある。…桜井地方第一の大池。池の名は帰化人の高麗人に由来し、彼らの指導により雄略帝のころに造られ、その後越智守興によって改築されたとの伝承がある。 480
すえき 須恵器  中国や朝鮮半島からもたらされた窯法によってつくられた陶器。…倭王武(通説雄略天皇)七年の条にみられる新漢陶部(いまきのあやのすえつくりべ)高貴らの工人集団が五世紀末には大和に定住して須恵器制作に従事した。…本県では須恵器窯は新居浜市船木町のカメ谷窯跡、温泉郡重信町下林の伽藍(がろう)窯跡、松山市北梅本町駄場、同市伊台町の末窯跡などがある。 480
こふんじだい 古墳時代  この時代は日本の国家統一事業が進められ…先進国の政治・経済・文化面の導入が図られた。特に鉄をはじめ各種の手工業者(渡来人)によって大和朝廷の基礎作りがなされ、開発に明け暮れた磁器であった。…須恵器の普及は… 500
えんぷくじ 円福寺  松山市城北の木屋町にある。・・・推古天皇四年(五九六)高麗僧慧慈により、勝山八幡の別院として、三宝院とともに円福寺が創建されたと伝えられえる。寛永四年(一六二七)に松山城主となった蒲生忠知(ただちか)によって祈願寺とされ、・・・ 596
ぬかたのおおきみ 額田王  斉明七年(六六一)天皇、皇子たち一行とともに百済救援に西航、伊予の湯で歌った。「にきたつにふなのりせむと…」 661
くだらのえき 百済の役   斉明六年(六六〇)七月に、唐・新羅連合軍は百済を滅亡させたが、百済の遺臣鬼室福信が中心になり東軍に抵抗し、同年一〇月に大和朝廷へ軍事的援助を求めてきた。
  これに対し、斉明天皇は斉明七年(六六一)一月六日に難波津を出発し、同三月一四日には伊予熟田津の石湯(いわゆ)行宮に到着し、同三月二五日に那津(博多)にいたった。
 伊予国における二ヶ月間にお滞在は、那津における渡海準備と伊予国などにおける百済派遣軍の徴兵に当てられたと考えられる。  天智元年(六六二)に、大和水軍は百済へと進駐し、翌年八月二七日から二八日にかけて白村江の江口で唐水軍と海戦にいたり、そこで敗北を喫した。
  この百済の役に参加した伊予国の人には越智郡の大領の先祖に当たる越智直や風速郡の物部薬がいたことが史料上確認される。・・・
662
きたうらはちまんだいじんじんじゃ 喜多浦八幡大神神社   越智郡伯方町北浦。最新は息長帯比売命(神功皇后)ほか・・

「世界大百科」神功皇后 じんぐうこうごう  記紀や『風土記(ふどき)』などにみえる伝承上の人物。『日本書紀』によると、仲哀(ちゆうあい)天皇の皇后で、名を気長足(おきながたらし)(息長足)姫尊(ひめのみこと)という。父は開化(かいか)天皇の曽孫(そうそん)、気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)、母は葛城高ぬか媛(かずらきのたかぬかひめ)。
  『古事記』では、父は開化天皇の玄孫で、母は新羅(しらぎ)国の王子天之日矛(あめのひぼこ)の五世の孫にあたるという。仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討つため筑紫(つくし)の橿日宮(かしひのみや)(香椎宮(かしいぐう)。
  福岡市東区香椎町に所在)にきたとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)と住吉(すみよし)三神が皇后にのりうつって託宣を下したが、仲哀はこれを信じなかったために急死した。そこで神功は、臨月であったにもかかわらず新羅を討ち、帰国後、筑紫の宇美(うみ)で後の応神(おうじん)天皇を出産。
  さらに大和(やまと)に帰還してかご坂・忍熊(おしくま)二王の反乱を鎮定し、応神が即位するまで69年間も政治をとっていたという。  『書紀』にはさらに多くの日朝関係記事が記され、なかには干支(かんし)二運(120年)を下げれば史実と考えられるものもある。また四か所にわたって『魏志(ぎし)』や『晋書(しんじよ)起居注』が引用され、編者が神功を倭(わ)の女王(卑弥呼(ひみこ))に比定していたことは疑いない。
 この伝説は、古くから朝廷に伝えられていた朝鮮半島侵略の物語に、各地で語られていた母子神信仰に基づく民間伝承的なオホタラシヒメの伝承や、京都府綴喜(つづき)郡に居住した古代豪族息長(おきなが)氏の伝承などが加わり、さらに7〜8世紀に古代天皇制の思想によって潤色を受け、最終的に記紀に定着したと考えられる。〈塚口義信〉
674
たなかのりまろ 田中法麻呂   資料上確認できる最初の伊予の国の国司。八色姓は朝臣。持統三年(六八九)一月八日に新羅から帰朝すると、すぐに伊予総領に任命されたとみられ…日本書紀… 689
いさにわじんじゃ 伊佐爾波神社   主祭神は応神天皇、中哀天皇、神功皇后、・・・ 1073
ふくおかはちまんじんじゃ 福岡八幡神社   周桑郡丹原町今井にある。祭神は応神天皇、神功皇后など。 1190
こばやかわたかかげ 小早川隆景   天文二年〜慶長二年(一五三三〜九七)戦国武将。毛利元就の三子…天正一三年(一五八五)の四国進攻で伊予を攻略し,その功によって伊予国を与えられた。…文禄の役で明の大軍を破り有名を馳せた。 1585
しゅっせきじ 出石寺   国の重要文化財の銅鐘は高さ八九センチ口径五五.七センチで株の鐘腹には仏体の坐像にj鳳凰を配した模様が鋳出されている。  朝鮮の高麗王朝時代(九一八〜一三九二)の制作で、豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき藤堂高虎が凱旋記念に献納したという。 1585
くるしまみちふさ 来島通総   永禄五年(一五六二)〜慶長二年(一五九七)織豊時代の武将。・・・文禄元年(一五九二)、文禄元年(一五九二)秀吉の朝鮮出兵、慶長二年の朝鮮再征で、水軍の中心となって活躍、同年九月一六日朝鮮水軍の将李舜臣と戦い、全羅道鳴梁で戦死した。風ハヤ郡大通寺に葬られた。 1592
とうじんまち 唐人町   松山市内の旧町名。江戸時代から城下町外側の町人町の中心として発展する。町名の由来は、加藤嘉明が慶長の役に連れ帰った朝鮮人を居住させたという伝承がある。 
  別書には、「この町、加藤嘉明が松山城築城に際して作った。  嘉明が朝鮮に出兵した時、つれて帰った捕虜を住まわせたのが名の起こりという。大陸のほうが文明が進んでいたから、彼らの技術導入を図ったものらしい。ところが住まわせただけで待遇がひどく悪かったものだから、だんだんと逃げて帰ってしまい、町名だけに唐人の名が残った」とある。
1592
くるしまみちゆき 来島道之   永禄元年(一五五八)〜文禄二年。文禄二年の朝鮮出兵通総とともに七〇〇名を率いて出陣、敵船を奪うべく奮戦中陣没した。墓は大通寺。 1592
まさきちょう 松前町   南北時代に吉野方の合田弥四郎貞遠の居城となって以来、大森彦七の領となり文禄四年(一五九五)加藤嘉明が第一回朝鮮出兵の功によって、六万石で正木城に封ぜられその城下町となったが、慶長八年(一六〇三)松山城へ築城移転したため一寒村となった。 1595
うわじまじょう 宇和島城   藤堂高虎が慶長元年〜六年に築城。・・・黒門・・・朝鮮式海城か(忘暮楼)? 1596
おもいやりじぞう 思いやり地蔵   大洲市五郎 思いやり地蔵
大津(長浜)から大洲城へ連行されるカンハン一行が渡河の際に苦労している姿をみて地元五郎の住民が粥などを提供したことにちなんで近年地元に「思いやり地蔵」が作られた。
1597
かんはん 姜ハン   一五六七年〜一六一〇年(永禄一〇〜元和四年)李朝時代中期の儒学者。韓国慶尚道真晋州の生まれ。全羅南道南原で食料の徴収に当たっていたとき日本軍の侵入(慶長の役・慶長二年=一五九七)に遭う。
  故郷に逃れ義兵を募るが、敵の急追に遭い、一族を率い海上に出て、水軍に投じようとしたが、暴風のため流され藤堂高虎に捕らえられて、一族とともに伊予大津(大洲)城に留置された。
  翌年脱出を図り豊後まで逃げたが捕まり再び連れ戻された(尾上の理解では宇和島まで逃げたではなかったかと思う)。
  幽囚中、金山出席時の僧快慶の同情を受け、詩文のやり取りなどして慰められた。のち大坂伏見城に写された際、京都相国寺の相だった藤原セイカと知り合い、高い水準の朝鮮儒学を伝授、四書五経などを筆写し注釈をつけた。
  経史に通じ、能文で才気にあふれる人物だっただけに日本の識者は学恩を感じ、セイカらの尽力で慶長四年帰国できた。
  セイカは日本朱子学を確立、徳川家康はその講義を聞き、弟子林羅山を登用、幕府の顧問とした。朱子学は幕府の正統学問となった。
 大洲市の中央公民館前に記念碑が建てられた。
1597
とうどうたかとら 藤堂高虎   (カンハン一族の拉致の件)(朝鮮式の海城の件も) 1597
おがわすけただ 小川祐忠   越智郡国分城七万石城主。・・・池田伊予守秀雄が慶長三年(一五九八)慶長の役で朝鮮の安骨浦で病死した後、その跡を受け七万石を得て国分城に入ったとされ、・・・ 1598
とよとみひでよしがぞう 豊臣秀吉画像   宇和島伊達文化保存会所蔵。一五九九富田将監知信が描いたもの。 1599
いよのくに 伊予の国・中世   一方伊予水軍は中世を通じて健在であり、朝鮮側の記録によれば倭寇に加わっていたといわれ、体外的な活動をひろげたとみられるが、これも豊臣秀吉の   海賊禁止令により本来の機能を失うにいたった。 1600
つくだかずなり 佃十成   一五五三〜一六三四加藤嘉明の家臣。秀吉の小田原攻めから朝鮮出兵まで主君加藤嘉明に従って苦労をともにした。 1600
かとうやすつね 加藤泰恒   寛永八年松山城を築いた松山藩主。・・・左馬助嘉明という。・・・「賎ヶ嶽七本槍」の一人・・・。
  伊予国松前で六万石を領し、朝鮮の役の戦功により一〇万石、関が原の戦いで二〇万石に加増され慶長七年松山築城に着手、以来二四年間松山城地の経営に力を注いだが、寛永四年会津若松四十万石に転封になり、・・・
1602
いまばりし 今治市の今治城   藤堂高虎による築城は海水を導いた三重の堀をめぐらし、内堀と外堀の一部は現存する。 1604
だてむねずみ 伊達宗純   一六三六〜一八八九、初代吉田藩主。…治世三五年間、…この間、江戸上屋敷の類焼、禁裏普請手伝い、公家・門跡の馳走役、朝鮮使節の饗応役など臨時の出費を迫られ、… 1657
つわじじま 津和地島   潮待ち、風待ちによく一六七二年河村瑞賢の開発した西回り航路の船、幕府の年貢米輸送船や一般商船が寄港して繁盛した…(朝鮮通信使一行の停泊があったはず)    1672
はんこう 藩校   大洲藩の明倫堂。一七四七年設立。一〇代泰済のとき幕府が異学の禁を断行したため、それまで大洲藩では中江藤樹の説いた陽明学に傾斜していた教学の奉公が改められ、明倫堂でも朱子学を奉ずるようになった。時観堂、吉田藩。一七九四年に設立、藩校の教授に登用された森嵩は備前の国の井上四明から朱子学を学び… 1747
しのざきさんとう 篠崎三島   一七三七〜一八一三、大阪の儒者。…二〇歳のとき喜多郡内子出身の父。・忠中の両替商伊予屋を継ぐ。中年から儒学に志し、菅谷甘谷に徂徠学を、橋本楽郊に朱子学を学んだ。 1757
びとうじしゅう 尾藤二州   一七四七〜一八一三、江戸時代中期の儒者。宇摩郡川之江村に生まれた。幼時から読書思索を好み儒医宇田川楊軒に徂徠学を学ぶ。一七七〇年大阪の片山北海の混屯社に入り、徂徠学に疑問を抱き朱子学に転向傾斜した。頼山陽の師。 1770
とべやき 砥部焼き   砥部は伊予砥の産地。起源は明確ではないが、磁器創業前に砥部焼きの記録と土灰釉の陶器の出土品がある。砥石くずに着目したのは大洲藩(砥部焼き以前に大洲梁瀬焼)で、杉野丈助らが肥前・筑前の技術を導入、磁器に成功した安永六年(1777)が始めという。 1777
とべやき 砥部焼き   砥部の地では元文年間一七三六〜四一すでに陶器が作られていたが安永六年一七七七磁器焼きに成功してからは磁器が主となった。…「そもそもこの業のこの地に起こりたるは旧大洲藩主加藤泰候公の勧奨によれり。安永四年二月二一日泰候公その家臣加藤三郎兵衛に命じてこの業の創立を図らしむ。…」(砥部磁器)業誌の記述によれば、本焼きは安永四年一一月下旬と翌一二月の二回行われたが失敗に帰した。たまたま、筑前上須恵窯から砥部に来住していた新基地という人が、失敗の原因を釉薬にあると指摘、このために(杉野)丈助は翌年一〇月はるばる筑前に赴き、有責、釉薬用蚊母樹(イス)灰を入手して帰り、その年一二月新釉薬を用いて焼成に成功したという。 1777
こんどうとくさん 近藤篤山   明和三年〜弘化三年(一七六六〜一八四六)儒官。宇摩郡土居町西条生まれ。…教義は朱子学であるが… 1802
にっかんしゅうこうじょうき 日韓修好条規(江華島条約)

治9(1876)年に日本・李氏朝鮮間に締結された条約。日鮮修好条規・江華(カンファ)条約共呼ばれ、江華島事件後、調印。日本は条規中に、「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」と表現し、李氏朝鮮を諸外国に先駆けて「独立国」として承認、清朝の宗主権を否認した。その他に、

  1. 釜山(プサン)等3港の開港による通商貿易
  2. 輸出入の無関税特権(1883年7月 日朝貿易章程で改正)
  3. 貿易規制品目
  4. 日本貨幣の使用
  5. 朝鮮銅貨の輸出入の自由
  6. 朝鮮沿海測量の自由
  7. 自治居留地(日本の領事裁判権)
等を規定。
1876
せいなんせんそう 西南戦争   西南戦争の始まった明治一〇年(一八七七)二月、本県でも、新政に不満を持つ士族の一味がひそかに武器弾薬を収集し、西郷軍に呼応して蜂起しようとした。
  征韓派の思想に共鳴する旧大洲藩士飯淵貞幹、政府の外交・経済政策に反対する旧宇和島藩士鈴村譲らの一党である。彼らは互いに連絡を取り氾濫の準備を整えていたが、官に発覚するところとなり、二月二三日以降四五人がいっせいに逮捕され、懲役五年から除族の処分を受けた。
  こうして県内旧士族の武力反乱は未遂に終わったが、「愛媛県初の国事犯事件」として世間の耳目を集めた。
1877
くし   佐田の岬の産業…採介魚は明治以降は海外にもおよび、明治一四年(一八八一)串の岡崎孫太郎が朝鮮半島の鬱陵島へ出漁したのが本県では初の海外出漁で大正三年(一九一四)には三一隻二一五人に達した。 1881
せいねんだん 青年団   明治一七年(一八八四)以降、青年会というものが各地に誕生、日清戦争をへて、さらに日露戦争中から教育勅語の精神を体し義勇奉公の念に燃える青年たちによって青年会が続々誕生した。…. 1884
あまし 海士   男がもぐって貝藻類を採取するのを海士という。その発祥地は西宇和郡三崎町である。
  昔からが日清戦争直後の明治27年(一八九四)ころから韓国に出漁したり、
1894
いおきひょうてい 五百木瓢(つくりは票)亭   召集により日清戦争に従軍、 1894
きくまがわら 菊間瓦   明治初年の株仲間解散後、新規営業者が続出し、同十四年に新旧業者は四三戸にのぼった。・・・販路も東京方面へ拡大、日清戦争後は台湾・朝鮮へも伸びた。 1894
きんしくんしょう 金鵄勲章   日清戦争の平壌戦の原田重吉を第一号としたが、本県では日清戦争で五九、日露戦争で九二二、日華事変以後は、昭和一三年六三人を最後に戦後の22年に廃止。 1894
たさかはたろう 田坂初太郎   一八五一〜一九二一実業家。越智郡弓削島に生まれた。日清戦争時石炭運搬で富を築き、因島船渠を経営、… 1894
にっしんせんそう 日清戦争   明治二七年一八九四年に起こった朝鮮半島の覇権をめぐる日本と清国の戦争…松山第二二連隊安満第二大隊が郷土部隊初の外征に先発。続いて二二連隊(富岡三蔵)の主力も京城で合流し、第一軍(山県有朋)の隷下で平壌包囲戦に参加して勝利を挙げ、北進追撃して鴨緑江を渡り、…ショウカ台では戦士一一人…日本新聞の従軍記者を志願した正岡子規は、戦争末期の二八年四月、宇品発海城丸で第二軍(大山巌)と追い、「行かばわれ筆の花散るところまで」と戦地に向かう。 1894
まさおかしき 正岡子規   明治二八年(一八九五)日清戦争従軍記者として金州に赴くが、帰途喀血 1895
ちょうせんかいのぎょぎょうけん 朝鮮海の漁業権 「近年、ことに日清戦後は其の有望なることが一般に普及し、著しく盛んなり、今では通魚者二十余府県、漁業も三十余種に達した。」(朝鮮海通漁組合連合会)。
一九〇〇年の場合、もっとも多かったのは広島県で年間626隻、つづいては山口県の243隻、愛媛県の181隻、香川県の168隻、長崎県135隻・・・・。
当時の出漁者は「実に無作法極まる者のみ」とまでいわれ、「朝鮮を未開国として劣等な国であるという観念をどの漁夫ももっている。したがって官民にたいして何事によらず乱暴の極を尽くします。」
1900
あんどうせいがく 安藤正楽   『高句麗・新羅世系論』 1902
あきやまさねゆき 秋山真之   日清戦争を経て米国留学、マハン戦術を極め、緻密なシステム思考で買いツン有数の天才戦術家へ成長してゆく。日露戦争では、連合司令長官東郷平八郎の作戦主任参謀(中佐)として活躍云々 1904
せんばたろう 仙波太郎   一八五五‐一九二九軍人・久米郡福音寺の庄屋に生まれる。”伊予の二宮金次郎”といわれた。陸軍教導団をへて陸士、陸代卒。日露戦争には第二旅団長(少将)として従軍。 1904
にちろせんそう 日露戦争 1904年(明治37)2月より翌05年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって戦った戦争。日本は12万の戦死、廃疾者を出し戦費15億円を費やした。
秋山好古 松山市歩行町生まれ。日清・日露戦争で活躍。特に日露戦争では無敵と称されていたコサック騎兵団を打ち破って日本軍の勝利に貢献した。後に故郷で教育者となり、私立北予中学校(現在の松山北高等学校)の校長として教育界に貢献した。正岡子規、秋山真之と共に司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」の主人公のひとり
秋山真之 秋山好古の弟で、子規の親友。日露戦争では東郷平八郎の名参謀として活躍し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った。開戦直前に打電した「天気晴朗なれど波高し」は有名
1904
にっかんぎていしょ 日韓議定書 一九〇四年二月二三日調印。日露開戦から二週間後に韓国に強要した約定。第三国からの韓国の保護を名分として韓国内での日本軍の行動の自由を獲得、韓国併合への第一歩をなすもの(「広辞苑」) 1904
にっかんきょうやく 日韓協約 (第1次日韓協約)八月二二日調印。韓国の財政・外交への日本政府推薦者の任用など。(「広辞苑」) 1904
にほんりくぐんのうた 日本陸軍の歌   大和田建樹作詞の代表的な明治軍歌。鉄道唱歌の作詞者で有名な大和田は安政四年一八五七宇和島にうまれ明治初期詩壇の雄。歌碑が…宇和島市の南予護国神社境内に建っている。 1904
ひのつとむ 日野強   一八六六〜一九二〇.周布郡新屋敷(現小松町)生まれ。軍人。日清戦争に従軍、日露戦争直前には朝鮮の義州でロシアの動静調査に当たった… 1904
みながわはるひろ 皆川治広   一八七五〜一九五八司法官、法律家。1904年国際法顧問で日露戦争に従軍。 1904
やすいまさかず 安井雅一   一八七四〜一九五三医師・政治家。現岡山大学医学部を卒業。直ちに志願して松山歩兵第二十二連隊に入隊、三等軍医に任官、日露戦争に応召し旅順包囲戦に参加した。…愛媛県医師会長、公選による初の松山市長…. 1904
やまぐちこけん 山口孤剣   一八八三〜一九二〇下関生まれ、宇和島で没した初期の社会主義運動家。…「平民新聞」などに健筆を振るい、日露戦争に協力した牧師らを鋭く攻撃。宇和島は妻の郷里。 1904
まつやまふりょしゅうようしょ 松山俘虜収容所   日清戦争当時清国の俘虜九二人、日露戦争当時がもっとも多く…多いときは四〇〇〇人、延べ六〇一九人の多数となり、・・・人口三万の松山に捕虜があふれた。…露軍の前線では「マツヤマサーン」は投降の合言葉になった。 1904
にっかんきょうやく 日韓協約 (第2次日韓協約)韓国の外交権を奪い保護国化。京城に統監府設置を規定「広辞苑」 1905
あいこくふじんかい 愛国婦人会権支部   日露戦争中の活躍はめざましく出征軍人の送迎、軍隊の慰問、戦没者遺族の援助などを行い、明治三八年には四六万人の碑の日本最大の婦人団体となった。 1905
かとうたくせん 加藤拓川   安政六年〜大正一二年、外交官、政治家。本名恒忠、幼名忠三郎。松山歩行町に、松山藩儒者大原観山の三男として生まれた、姉の八重は正岡子規の母。
  ・・・(明治)三十九年には第2回万国津梁赤十字条約改正会議に日本側全権として出席したが、調印形式をめぐり韓国統監伊藤博文の怒りに触れ四〇年依願退職した。
  翌年・・・松山選出の衆議院議員になり・・・大正十一年、請われて第五代松山市長に就任・正岡家を継いだ忠三郎は三男。
1906
にっかんきょうやく 日韓協約 (第3次日韓協約)統監府による内政全権の掌握を規定し、韓国軍隊を解散させる。 1907
うえきほみき 植木秀幹   明治十五年七月二六日〜昭和五十一年一月十二日、植物・農林学者。来た軍柚木村に生まれる。  明治三七年東京帝国大学卒業、同四〇年から昭和20年まで朝鮮にあって、主に水原農林専門学校教授として活躍。当時の朝鮮の林業発展に大いに貢献した。・・・戦後日本に帰り、・・・愛媛大学農学部教授・・・ 1907
いとうひろぶみ 伊藤博文   祖先は伊予の豪族・河野通信の出で、松山の桑原淡路ヶ峠城主、林淡路守道起 10世の孫。・・・
  韓国統監時代の明治四二年三月一四日来県、海難新聞によると、道後公園での歓迎会で「予の祖先は伊予の出なり、通起の3百回忌を明年営みたい」と演説したが、それを待たずに同年秋の満州視察中、ハルピン駅頭で韓国民族主義者の銃弾に倒れた。
1909
ちゃんすんぽ 長承浦 一九〇八年には韓国漁業法が公布され、韓国在住の日本人にも漁業権が許可されることになり、移住漁村は加速される。このとき島根県が出願した漁業区は二〇〇件に達したといわれるが、一九一〇年までに慶尚南道竜南軍東面海松亭(統営の内)、同巨済郡二連面(巨済島の内)同郡東部面猪仇面(巨済島の内)、・・・・・などに漁業根拠地を設置した。しかし、・・・・ほとんどの移住漁村は失敗した・・・「通魚者は鮮海の魚類を捕獲して内地に運搬するに止まり、何等鮮内経済上に貢献するところなし」(朝鮮総督府の評価) 1908
ふるやひさつな 古谷久綱   一八七四〜一九一九政治家、明間(あかんま)村(現東宇和郡宇和町)生まれ、二八才で伊藤内閣の総理大臣秘書官、続いて韓国統監秘書官、枢密院議長秘書官とつねに(伊藤博文の)側近にあった。
  伊藤遭難(一九〇九)の後は宮内省に入り式武官、李王職御用掛を歴任した。著書に「藤公余影」。
1909
かんこくへいごうじょうやく 韓国併合条約 韓国の統治権を完全かつ永久に二歩に譲渡することなど規定。以後・・・朝鮮総督府をおいて支配した。
つしまますえもん 津島増右衛門   一八七三〜一九一一ノリ養殖功労者。西条の禎瑞難波生まれ。同地区は一七七八年から西条藩が手がけた近世伊予における最大の干拓新田であったが、明治二〇年〜三〇年代は大暴風雨や干害に加え、別子煙害で不作続きとなった。同三六年、増右衛門らは陣頭に立ち年貢免減を要求して小作争議を起こすほどであった。
  同地妹背川の樋門外のノリ付着に目をつけた増右衛門は、沖縄や朝鮮でノリ養殖を視察、四三年禎瑞漁協理事に就任して県水産試験場東予分場の協力により近代子規ヒビ立て養殖事業に先鞭をつけ、西条を中心としたとくさん「愛媛乾ノリ」の基礎を作った。
1910
かつだかずえ 勝田主計   一八六九〜一九四八実業家。(大蔵次官)退官後の大正三年( 一九一四)貴族に勅撰され、一時朝鮮銀行総裁にもなった。、 1914
あきやまよしふる 秋山好古  日露戦争で騎兵第一隊長・・・日露戦争では、騎兵第一旅団長となり・・・のち第一および近衛師団長を経て、大正五年(一九一六)大将。朝鮮軍司令官、教育総監、・・・ 1916
みずのこうとく 水野広徳   一八七五〜一九四五『此の一戦』の作者、海軍軍人。松山市三津浜の生まれ。欧州視察(一九一六〜一九一八)…帰朝後非戦平和論を展開する。 1916
かんのわたろう 菅野和太郎   明治二八年〜昭和五十一年、経済学者・政治家。伊予中学校卒業後、朝鮮に渡り綿会社に入社したが、帰国して大正六年(一九一七)京都帝国大学に入学、・・・自由民主党有数の経済通として・・・佐藤内閣の通産大臣(二回)、万博担当大臣として大阪万博を成功させた。 1917
たなかきゅうしん 田中九信   一八八四〜一九七五、医師。北宇和郡三浦村生まれ。大正六年(一九一七)、朝鮮釜山府で開業、同府医師会長もつとめた。…太平洋戦争が終わり昭和20年引き上げ、西三浦に診療所を開設した。…同地かも神社に胸像がある。 1917
たかはまきょし 高浜虚子   虚子は1924年満州(中国東北)、朝鮮を訪れ、また36年(昭和11)渡欧し句境を広め、また海外に俳句を示した。

「高浜虚子と朝鮮」:高崎宗司氏が寄稿予約
1924
やまべみんたろう 山辺a太郎 松山出身の詩人・山辺a太郎
 
山辺a太郎関連年表 ver.2

 父 「農家の一人息子」「能書で計数に明るく」「チャキチャキの憲政会」「浄曲好き」
 
母 「近郷に美貌を謳われ」「貞淑、忍従、犠牲の権化」「十人の子沢山」

1905(明治38) 愛媛県温泉郡小野村(現・松山市)北梅本で生まれる(本名建九郎、第五男)
-- 母、十人目の末っ子の病死を追って四十五才で死亡

1910(明治43)-- 日韓併合条約公布、大韓帝国を朝鮮と改称、朝鮮総督府を設置。

-- 長兄の勧めで、陸軍幼年学校受験。気乗りせず、2度受けて2度失敗

-- 父、還暦祝いと記念旅行の後死亡

中学時代
松山中学に入学。200人中11番。
中学時代 漱石の小説、ゲーテ『若きウェルテルの…』、生田春月を熱愛。
中学時代 詩作をはじめ。謄写版刷りの同人雑誌『青りんご』等を刊行

中学時代 18歳から20歳の春までに詩82編(習作的作品)

旧・朝鮮京城時代 中学卒業後すぐ満鉄京城管理局(後の朝鮮総督府鉄道局)経理課に就職。「ひねもすお札の勘定」

1924(大正13) 20歳。作詩数、26編

1925(大正14) 21歳。作詩数、29編

1925(大正14) 3月31日、朝鮮総督府、鉄道部を廃止して鉄道局を新設、南満州鉄道株式会社への鉄道経営の委託を解除して朝鮮鉄道を朝鮮総督府の直接経営に移す。

1925(大正14) 4月20日、全朝鮮民衆大会開催禁止に抗議,約200名が赤旗を掲げて京城市内をデモ(赤旗事件)

1925(大正14) 5月12日、朝鮮に治安維持法適用を施行。11月27日、第1次共産党事件。朴憲永、金若水らを逮捕。

1925(大正14) 6月27日、官幣大社朝鮮神社を朝鮮神宮と改称。9月8日、『朝鮮日報』発刊停止処分。

1926(大正15) 22歳。作詩数、40編

1926(大正15) 3月6日、『東亜日報』停刊処分。6月21日,第2次共産党事件。

1926(大正15) 10月29日、城津港修築工事竣工

1927(昭和2) 23歳。作詩数、50編

1927(昭和2) 朝鮮鉄道、シベリア経由ヨーロッパ各国間との旅客及び手荷物の連絡運輸を開始

1927(昭和2) 1月22日、高麗革命党検挙。6月7日、元山労働連合会ストライキ

※別書:1927(昭和2) 4月20日、京城市内・吉井信夫宅で『詩祭』同人の集まり。参加者、吉井信夫、山辺a太郎、温泉郡小野村北梅本に生まれた。松山中学時代から思索をはじめ、朝鮮総督府鉄道局に勤めて朝鮮詩壇で活躍した。繊巧な抒情詩人で造形性より音楽性に飛んでいるが、朝鮮の参上を告発した作品は熱いヒューマニズムが脈打っている。…「文化朝鮮」の編集にあたった。戦後、郷里に引き上げて行商と農耕に携わり、過労がもとで病死した。(図子英雄)
1924
いかたちょう 伊方町   大正から昭和にかけては養蚕と畜産が繁栄。このころ、杜氏など出稼ぎも増え、大正昭和の全盛期には、県内外で七百人の杜氏が活躍。
  満州(中国東北部)、朝鮮半島にも進出していた。
1926
かわしまよしゆき 川島義之   明治十一年〜昭和20年、軍人。松山中学を経て・・・明治四十一年陸軍大学校卒、・・・
 昭和二年中将に昇進・・・朝鮮軍司令官となる。昭和九年大将、翌十年岡田内閣の陸軍大臣ににんぜられる。・・・
  退役後昭和15年から三年間朝鮮国民精神作興連盟総裁となった。
1927
じょうこうよねたろう 上甲米太郎   八幡浜市千丈河の内に生まれる。大洲教会で受洗。上甲家破産後一家は朝鮮へ渡る。京城の教員養成学校学び、一九二二年朝鮮人の小学校の教師に…

八年余りの教員生活の中で彼は日本統治下の朝鮮の現状に悩む。…

次第に社会主義に傾倒してゆく。

(校長になってからは)日本語で行う修身の授業を、使用が禁止されている朝鮮語で行い、

さらには軍国主義教育の廃止を訴えるべく、教員の組合を画策したとして

一九三〇年に治安維持法違反で逮捕される。

懲役二年の有罪で出獄後教員免許を剥奪されさまざまな職を転々とした後、北海道の釧路炭鉱、そして九州の三池炭鉱で働くこととなる。

戦時中に強制連行され、働かされていた朝鮮人労働者のよき理解者として慕われた彼だが、戦後はすぐにレッドパージで失職。その後は紙芝居屋を続けながら三池にそのまま残った朝鮮人労働者とかかわっていくことになる。

一九二二年慶尚南道ハマン郡ハマン公立普通学校教師、五年生担当。

一九二三年校長となる。朝鮮語で修身授業。警察に警戒され始める。

一九三〇年治安維持法違反で逮捕、西大門刑務所に入る。...
1930
ひろおかみちあき 弘岡道明   一八八二〜一九四〇医師。大洲市生まれ。京都帝国大学医科大学を卒業。陸軍に入り軍医学校教官を振り出しに陸軍省医務課長、近衛師団、朝鮮軍司令部の軍医部長を経て軍医総監となる。 1930
しらかわよしのり 白川義則   明治元年〜昭和7年軍人。上海での天長節祝会場において朝鮮人の投じた爆弾で殉職した。 1932
えひめけんごごくじんじゃ 愛媛県護国神社   昭和一四年一〇月現在地に清社殿を竣工して奉遷し、内務大臣指定護国神社となり…祭神は明治維新から太平洋戦争までに国の為に命をささげた本県出身者四万七六一九柱の英霊をまつり…. 1939
せんじどういん 戦時動員   なお、昭和一四年の国民徴用令によって、朝鮮では二〇年までの間に七〇万人から一〇〇万人が強制連行され、炭鉱はじめ各種鉱山、土建、軍需工場で強制労働に服したといわれる。… 1939
すみともきんぞくこうざんべっしじぎょうしょ 住友金属鉱山別子事業所   昭和一二年(1937)住友別子鉱山と住友炭鉱を合併、住友鉱業となり… 1943
べっしどうざん 別子銅山   「住友別子銅山で<朴順童>が死んだ」 1943
しこくちょうせんしょうちゅうがっこう 四国朝鮮初中級学校 …昭和二〇年(一九四五)一一月一日、県下在住の朝鮮人指定に民族教育を施すため…. 1945
だいじゅうとうよまる 第十東予丸   一九四五年一一月突風を受けて沈没。済州島からの復員兵多数乗船。救助された遭難者はほとんどが元気な復員軍人だった。 1945
のまふさよし 野間房義    一八九八〜一九七八実業家、政治家。今治市生まれ。家業の土木・建築業を継ぐ。

昭和二〇年一二月に朝鮮から引き上げた…昭和二六年には(県会)議長
1945
うめのせいとうしょ 梅野製陶所   昭和二八年から「用の美」の工芸品食器、花瓶などの商品開発に取り組む。 1953
いかだづさんそう 筏津山荘 鉱山閉山後・・・再開発 1965
きょうどがんぐ ひめだるま 姫だるま   一名「八幡起き上がり」とも言われるのは神功皇后が三韓遠征の途次、道後に立ち寄られ、伊佐爾波神社に戦勝祈願の後、筑紫の浜で無事、応神帝を出産されたという伝説にちなんだもの。

明治四年幼帝の産着に模して・・・・刻んで作ったが・・・
1971
けんにっかんゆうこうしんぜんきょうかい 県日韓友好親善協会 1974
すえひろてっちょう 末広鉄腸   一八四九〜一八九六明治初期の政治小説家。宇和島笹町の生まれ。明治25年一八九二年にはシベリア、朝鮮なども視察、体験・見聞をもとにさまざまな評論を発表した。 1982
すみよしまつり 住吉祭り   大阪市住吉区住吉大社を宗社とする。社伝によると神功皇后の新羅出兵の際、軍船の航海を守護したしたので神託により現在地に祀ったといわれる。本県には住吉神社八一社を数え、その三九社は南予にあり、東、中予には少ない。 神功皇后
こうらいぎょじょう 高麗漁場
さんごくいち 三国一 八雲神社舟歌「」
おおずとれいこう 大洲と霊光 交流
まつやまとへいたく 松山と平澤 友好都市