忘 暮 楼 日 記
2006年2月12日

安藤正楽 ANDOO SEIGAKU


 妻が車を買い替えた。私はこの機会に自分がほしかったカーナビをプレゼントした。
 今日は初めてそのカーナビの案内で前々から行きたく思っていた四国中央市の土居町藤原に安藤正楽の文章による日露戦争従軍記念碑を見に行くことにした。

 さすがカーナビ、松山自動車道を土居ICで下ろし、突き当たったR11に目もくれずそのまま直進し、ぶつかったT字路を左折、まもなく「目的地周辺です」と案内を終了した。そこが四国中央市土居町藤原だった。見事なものだ。

 下の地図の北西の隅に二つの神社マークがある。道路のすぐ上の神社が一宮神社(藤原神社)、左側の卍マークの南が目指す「八坂神社」である。


地元の人に神社をたずねるとここ「一宮神社」を教えてくれた。私がうろ覚えで「八坂神社は?」というべきところを「藤原神社は?」とたずねてしまったのだ。藤原神社は一宮神社と同じ場所だった。

 「八紘一宇」の石塔が建っている。靖国に限らず神社はたいてい戦争肯定の思想が漂っている。

 その「八紘一宇」の塔に「合田亀丸」の名が刻まれていた。

 「一宮神社創建500年式」寄付者碑の筆頭には「合田厳穂」の名もある。実は合田亀丸と合田厳穂のお二人は親子であるが、お二人とも安藤正楽の「日露戦役記念碑」とは深いかかわりがある。

 安藤正楽が撰文し筆をとった八坂神社の「日露戦役記念碑」は後述のごとく、その碑文のゆえに官憲によって「日露戦役記念碑」という題字以外の文字をすべて削り取られたのだが、それが削られる前に碑文を写した人があった。それが一宮神社宮司「合田亀丸」だった。
そしてその碑文写しを保存していたのが合田亀丸氏のご子息合田厳穂氏(一宮神社宮司で八坂神社宮司を兼務)だったわけだ。

一宮神宮をあとにしてもう一度先ほど道を教えてもらった方のうちにより、今日の本命、八坂神社への道をたずねた。こんどもすぐわかった。堤防の道を歩けばまもなく鳥居が見えてきた。通りすがりの婦人にたずねると「あそこです。いろいろ記念碑がありますからね」と教えてくれた。

 ここが目指す八坂神社である。

鳥居の手前には大きな「顕功碑」が立っている。日清、日露、第2次大戦での戦没者の功績を顕彰する碑である。

 境内に入るとまた別の碑が建てられている。下の写真には四つの碑が見られるが、右から三つ目が安藤正楽の撰文、揮毫による「日露戦役記念碑」である。

 この日にはもともと次のような碑文がしたためられていた。

「日露戦争から凱旋した藤原の軍人諸氏が予に其の記念碑の文を請はれた。

 其の人達は(以下越智大吉以下37名の名前が列挙されているが略す)の三十七氏で八人は負傷し、外近藤嶺吉 高石音吉の二氏は討死されたのである。

 嗚呼此部落僅に百七十戸それに此数多の人が出て征ったか いまさら当時を回想し戦慄せさるを得ぬ 

 由来戦争の非は世界の公論であるのに 事実は之に反し戦は亦明日にも始まるのである ああ之を如何にすればよいのか 

 他なし 世界人類の為に忠君愛国の四字を滅するにありと予は思ふ 諸氏は抑此役に於て如何の感を得て帰ったのであらふ

明治四十年三月
                          安藤正楽題選書


 
 しかし、以下に近づいて見てみても碑面には一字の文字も読み取れない。碑文は官憲によって削られたのだそうだ。当時の関係事項を山上次郎氏の著書「非戦論者 安藤正楽の障害」などを参考にして年表にしておこう。
1900年
(明治33)
社会主義協会、1月28日に社会主義研究会を改称し発足。会長は安部磯雄(いそお)。非戦論展開。
1901年
(明治34)
安藤正楽、徴兵反対の歌
徴兵検査場に立会しける時詠みける歌1,2
○身を挺し国に尽くせと王はのるよ嗚呼人を殺しにわれは来つるか
○肉は飛び血ほとばしりてんその時し今日をうらみの人は知りてん
○人の世に男の子となりて生まれこし益荒男よ国は汝が血を徴す
○糾したる武夫五十万ああ国家国家国家は魔城よ
○今日ここにエホバの神の手を離れ悪魔にさらわるあはれ人の子
など・・・・
1903年
(明治36)
内村鑑三が『万朝報』に「戦争廃止論」を書く。
同年 3月、安藤正楽「・・・王は罰するに殺人をもってす/」窃盗をもってす/姦淫を持ってす・・」という激越な反体制詩を書留る
同年 10月、『万朝報』が圧力に屈して「可戦」に踏み切る。
同年 11月、『万朝報』主筆幸徳秋水と堺枯川(利彦)は内村鑑三とともに退社、直ちに「平民新聞」を発刊。
1904年
(明治37)
1月、平民新聞全紙を非戦論に充てる。
1)戦争を相談するのは天皇と高官貴族将官たちだけ。人民にとっては迷惑なだけだ。
2)ロシアは日本をとるつもりだと宣伝するが、それは恐露病だ。其の論法でいうと日本はロシアの国を滅ぼさなければならなくなる。そんなことができるのか。

3)13個師団の陸軍と20万トンの海軍は何のためにあるのか、というが、それは自分の家に名刀があるからには人を殺さなくてはならないというに等しい。

などなど、理路整然とした非戦論であった。
同年 2月、日露戦争開戦
同年 8月、トルストイの日露戦争論「汝悔い改めよ」が平民新聞に全文転載された。
同年 9月、与謝野晶子、「君死にたまふことなかれ」を発表
同年 11月、社会主義協会、結社禁止を命ぜられる。
1905年
(明治38)
1月『平民新聞』廃刊。
同年 9月、日露講和条約成立
1907年
(明治40)
3月、安藤正楽、八坂神社境内の「日露戦役記念碑」題選書。
1910年
(明治43)
大逆事件関連で、5月25日の長野県における宮下検挙を手始めに、6月1日には神奈川県湯河原(ゆがわら)で幸徳秋水を逮捕。
同年 11月17日「日露戦役記念碑」の碑文問題で逮捕せられる(山上次郎氏説)
1911年
(明治44年)
1月24日幸徳秋水死刑執行。
同日、安藤正楽釈放せらる(山上次郎氏説)


 すべての文字を削られた記念碑の横に合田亀吉氏が写した拓本によって原状が再現されている。

安藤正楽はまた愛の人でもあった。山上氏の「非戦論者 安藤正楽」には次のような相聞歌が紹介されている。
○あなたに対して直ぐ知覚を失つてしまふ 私の心をみなあなたが持つていつてしまふのよ
○あなたをよろこばすために生まれて来たのです 私は死んでも幸福です 喜びのために
○童貞をささげることは命です 恐ろしいことです 私はもう知覚さへ無いのです
○汲み干せない井戸があなたの為に 今宵も湧ひて居ります 心静かに酌むでください
などなど多数・・・
 八坂神社からの帰り道、明石山系の雪山が荘厳な姿をみせていた。