2000年5月26日金曜日曇り     

松山の露人墓地と天皇のオランダ訪問


  松山市には日露戦争当時、ロシア人俘虜の収容所があった。俘虜たちは道後温泉のある暖かいこの地でのんびりとした俘虜生活を送ったようで、松山の市民もずいぶん彼らを大切に扱ったそうである。松山の寺町のはずれには、ここで亡くなった98人の俘虜たちの墓地があって、現在も地元の人々が清掃と供養を欠かさない。

(松山の露人墓地。ロシア戦争時の俘虜部隊の隊長ワシリー・ボイスマン大佐の胸像と墓標)
(最右列が下士官の墓標、後は兵卒の墓標。没年はすべて1904年または1905年である。墓には地元の婦人会や老人会の人々の手による供花が絶えない。)

 清沢洌は『暗黒日記』の中で大東亜戦争における俘虜問題を取り上げている(昭和19年2月14日)。

 敵の俘虜虐待宣伝は、習慣の相違にもよろう。日本では罪人を打ったり擲(なぐ)ったりすることは全くなんでもないのである。
 しかるに、日露戦争の頃は「国際法」というものが、厳格な手本であった。それに準ずれば俘虜優遇の事実が生まれる。第1次世界戦争のころもそうだった。

今や日本復古精神によるのであり、英米人優待は「親米的」であるから、自然(俘虜にたいする無法な扱いが…忘暮楼補足)極端になるのであろう。いつか俘虜管理官小田島(薫)大佐が、「日露戦争の頃は西洋崇拝的であったから、現在は日本主義にした」といっていた。

こうした小さな事件──影響は決して小さくないが──においても、今回の戦争の復古的性格を見ることを得よう。

 「暗黒日記」は1ヶ月後の3月13日にもう一度この件を取り上げている。
 「(日清戦争、日露戦争の)時には伊藤、山県、桂、いずれも国際情勢の動きは心得て、その基調は開明的であった」。
 ところが「大東亜亜戦争の思想的背景は極端なる封建主義」であって、「『西郷隆盛』『宮本武蔵』『四十七士』等の隆盛が、今の如く極端であったことはかってなかったであろう」と続ける。

 そして、「故に、大東亜戦争においては、俘虜の扱いに関しても、日露戦争を先例とせざる理由なのである。小田島俘虜監督官は日本クラブの講演会で、明白にそれを明言していた。」と改めて慨嘆している。

 「日本国の象徴」は今回のオランダ訪問で悪戦苦闘している。「日本国の象徴」に対するオランダ人の反感には根強いものがある。この悪戦苦闘は、父君の軍隊のかの「日本主義」が半世紀後にもたらした影響なのである。清沢の指摘どおり、確かに「影響は決して小さくな」かった。