2000年4月16日日曜日 このところ堅い話が多くて…  
オジイサンの責任 その1


山口定さん(立命館教授)の問いかけ。

 孫に対してオジイサンの責任を提起するのは、’民族’としての責任の連続性を主張する民族主義の論理にでも立たない限り─そして私は民族主義者ではないのですが─どうしても無理がある。(『戦争責任・戦後責任』朝日新聞社)
 昨年の夏、高校一年生のイチロー君と韓国旅行をした。当時、勤務校のハングル同好会の会員は彼一人であったので、研修旅行も二人連れとなったのだった。

 韓国や日本の歴史に関心の深い生徒で案内のし甲斐があった。メール友達の青年ヒョンホ君の全面的なサポートもあって楽しい旅行だった。ソウル・景福宮から東海・武王海中陵までの長旅でそれそれに思い出があるが、いま振りかえってみると、この旅のハイライトは、やはり、元「従軍慰安婦」という経歴を持つ老女性たちのホーム「ナヌムの家」訪問であったというべきだろう。

 ナヌムの家訪問という日程は、忘暮楼が自分で決めた日程であるのに、訪問の日までずっと重い荷物のままだった。この旅行までの私は、「『従軍』『慰安』婦」問題のように「 」をたくさん使わないと表現できないこの問題との直面を避けていた。忘暮楼のような遊び人には、この問題は余りにも深刻過ぎた。「異民族の女体の平然たる蹂躙」、「責任を取らない父親たちと我々の責任」、そこには、生身の身体を突きぬくような問題性があった。

  もちろん、目をそらせば消えうせる問題ではない。いずれ、いやできるだけ早く、この問題に正面から対することができる自分にならなければならない、そう思いつづけてはいた。そして、その夏、怖いお話をしてくれる親にしがみつくように、忘暮楼はナヌムの家に足を踏み入れ、勇躍、その厨房に立った。

 その夜、始まるともなく始まった交流の座で、イチローは中国東北部から韓国へ帰ってきたばかりのおばあちゃんの手を、ひどく思いつめた顔つきでずっと握りつづけ、ときには涙ぐんだりもしていた。忘暮楼はお酒をしこたま飲んで、母親くらいの年齢の元・「従軍慰安婦」と軽口をたたきあっていた。

 翌日、ナヌムの家を出るとき、母親のようなキムスンドクさんは私にジュースやお菓子がたくさん入った紙袋をくれ、「また来なさい」と命令調の別れの言葉をおくってくれたのであった。私は救われた。

 さて、山口定さん(立命館教授)の問いかけ。

 孫に対してオジイサンの責任を提起するのは、’民族’としての責任の連続性を主張する民族主義の論理にでも立たない限り─そして私は民族主義者ではないのですが─どうしても無理がある。(『戦争責任・戦後責任』朝日新聞社)
 川島高峰さんの論文「戦後の終焉と冷戦後責任」(上の山口さんの問いかけもこの論文からの孫引きです)を読ませてもらったが、川島さんは
「この山口定氏の問いに私はいかにして答えるのかが、本論分の目的でもあった」
と書いておられる。この山口さんの問いは、私にとってももうそろそろ超えなければならない峠と思われる。イチロー君の涙を思い出しながら考えてみたい。