2000年2月19日(土曜日)
出雲雅志先生からいただいた書評


ファイルの整理をしていたら神奈川大学の出雲雅志先生からいただいた書評が出てきた。
思いで深い文章なので掲載しておきたい。この書評は1997年に愛媛新聞に掲載された。ご執筆当時出雲先生は松山大学教員。

書評:尾上守・松原満紀著『住友別子銅山で<朴順童>が死んだ』


(晴耕雨読、1997年6月、本体2,095円)

 人口三一一人の愛媛県宇摩郡別子山村。西日本一小さなこの村には、かつて世界 最大規模を誇る住友別子銅山の拠点があった。一九七三年に閉山されるまで二八〇年 にわたってここで銅を採掘してきたのは、日本人だけではない。

 戦時中、日本人が戦 線に大量動員された後の労働力不足を補うため、たくさんの朝鮮人(それに中国人や オーストラリア兵捕虜なども)がこの軍需産業の「前線」に連行されてきたのである 。

 だが、日本の侵略戦争に駆りだされて酷使された彼らの存在は、ほとんど知られて いない。それは歴史に埋もれてしまったからではない。戦後日本の繁栄の陰で黙殺さ れてきたからである。

 けれども、北海道住友鴻之舞金山から別子銅山へ移送された二 四四人の追跡調査を中心に、愛媛県下の朝鮮人戦時動員の実態を明らかにしようとし た本書によって、これまで閉ざされてきた歴史の闇にようやく光があてられはじめた のである。

 一九九一年の夏、二四四人の中のひとり朴順童さんのものとみられる墓石が別子 山村で発見された。作業中の事故がもとで二十数年の短い生涯を異国の地で閉じなけ ればならなかった人間の、四八年ものあいだ顧みられることなく沈黙しつづけた墓石 だ。

 その墓を前に著者たちはおもう。「墓は人間なのだ。人間の無視はすべての罪の 源である。……韓国にいる家族に肉親がここに眠っておられることを知らせよう」、と 。

こうして朴順童さんの足跡を追う五年の歳月をかけた旅がはじまった。北海道開 拓記念館に残されていた二四四名の名簿を手がかりに、韓国中西部の忠清南道へたど りつき、韓国・大田MBCテレビの協力のもとで、著者たちはついに別子銅山から故 郷にもどった生存者を探しあてる。

 呉永禄さん(七四歳)、姜先東さん(七五歳)、 具景会さん(八〇才)、具昶熙さん(七六歳)、郭萬鐘さん(七一歳)、金東尹さん (七〇歳)の六人だ。

 「韓国は日本人に支配されていたのです。……日本人から、こ うしろ、と言われると……恐くて抵抗は出来ませんでした」
「行く先や仕事・賃金に ついてですか。事前には一切言われませんでした」
「危険な仕事場ですので、弁当を 食べながら、この弁当を明日も食べられるかと毎日不安に思いました」
「腹が減った ら山菜を採って食べていました」
「戦争が終わったら韓国に帰れるのに……そればか り考えて仕事をしていました」。

 過酷で危険な労働、「内地人」の五割から八割とい う賃金差別、日本語や日本名を強要する皇民化政策――これらすべての日本による「 犯罪」が、生き残った六人の五〇年前の記憶の底からよみがえる。そして朴順童さん と思われていたのは、じつは身代わりで日本に連行された弟の朴順福さんだったとい う意外な事実も判明する。

 忘れてはならない、消してはならない記憶が、たしかにここにある。しかし、具 景会さんが調査の翌年に亡くなったように、歴史に記録しておかなければならない記 憶は、時とともに少しずつ消されてゆく。

 しかも、こうした記憶とともに生きる人々 に向かって、嘘つきだ、と断言する者さえいるのだ。

 性奴隷を強制された元「従軍慰 安婦」の証言に「金ほしさ」のためだと下劣な罵声をあびせて恥じない「記憶の暗殺 者たち」(ヴィダル=ナケ)である。偏見と虚偽に満ちた彼らの言説がはびこりつつ あるようにみえる今、歴史を目撃し体験した「生き証人」の記憶をひとつひとつ記録 することの意味は大きい。

 聞き取り調査と資料分析を通じて、むりやり人生を奪い取 られていった朝鮮人の記憶をはっきりと歴史に刻み込んだ本書は、記憶の抹殺を企て る者たちに鋭く対峙する抵抗と良心の記録として読まれなければならない。

        

出雲雅志(松山大学経済学部教員)