2001年 12月17日 月曜日

「姫だるま」の朗報


 以前韓国の知人へのお土産に郷土玩具の「姫だるま」を準備したことがあった。出発の前日になってこの姫だるまが「三韓征伐の神功皇后」ゆかりの人形だったことを思い出して冷や汗を流したことがあった。『愛媛県百科事典』には次の説明がある。

 一名「八幡起上り」とも言われるのは、神功皇后が三韓遠征の途次,道後に立ち寄られ、伊佐爾波神社に戦勝祈願の後、筑紫の浜で無事、応神帝を出産されたという伝説にちなんだもの。
 ちょっと説明不足になっているが、ヤワタ(八幡)神は応神天皇とされているのでこういう記述になるのである。
 同書はつづけて、別の言われも紹介している。これも天皇がらみだ。
  明治4年幼帝(といっても、明治天皇1852年生まれだから明治4・1872年時点では20歳…忘暮楼)の産着姿に模して伊予郡南伊予村の両村倉造が桐材を刻んで作ったが、明治27年、松山に移住してきた二代目の貞助から紙張子の現在の形になった。こどもがもてあそぶと健やかい成長するとか、病院の枕辺に置くと回復が早く、起上れるなどと言われる。
こんなものを韓国の人へのお土産にするわけには行かないので、「姫だるま」はそのまま物入れの奥で寝っ転がっていた。

 そこへ畏友(酒友かな)・佐々木泉県議が旅先から葉書を送ってくれた。彼にはこのお蔵入りした「姫だるま」の話を聞いてもらったことがあった。朗報である。


 道後の商店街で目に付くものの一つに姫だるまがある。その起源についてはいくつかの説があるが、昔道後地区の小学校の副読本に使われていた「わたしたちの道後」(青葉図書)にも、義安寺の項に、義安寺ボタルなどとともに姫だるまに関する記述が載っている。 
それによると、

 姫は河野通有のおじ通時の娘で、元寇(弘安の役)で討ち死にした父を弔うため長く義安寺に留まり、そこで無くなった。義安寺は禅宗(曹洞宗)なので達磨に姫の顔をかいて供養したのが姫だるまの起こりである

という。

 事実、義安寺の墓地のプリンスホテルよりの一番高いところに姫塚があり、二つの墓が並んでいる。義安寺で確かめると、向かって右側が通時の墓、左側が通時の娘の墓だそうだ。


 以上、「道後湯築城跡を守る県民の会」の会報より、「土居 敬之介運営委員の文章にありました。「神功皇后」の神話が起源と信じて来ましたが、この文章のとおりなら、安心してお土産に進められます。

 元寇だったか。これなら高麗がらみではあるがまあ説明がつきそうだ。「神功皇后」説ではダルマの形をしている理由が説明できないよね。禅宗だから達磨法師が出てくるわけだ。フムフム(^_^)、21日から韓国へ行きますが、今度は「姫だるま」にお出ましを願いましょう。


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