2001年 11月21日 水曜日

時間


黄葉から黄葉までのあいだ

 学校の校庭のタイワンフウが今年も見事な黄葉を見せている。 朝の陽光に美しく生えるタイワンフウをしばらく見惚れていたのだが、昨年の今頃もこのタイワンフウに見とれていたなあと思い出した。そして卒然時間とはなにかと考え込んでしまった。あれから今日までの1年間は本当にあったのだろうか?と。

記述と想起 

 私がこの1年の間何をしたかを知るには、手帳の予定表やパソコンのスケジュール表の記述がヒントになる。記述といってもそれらはほとんどが会合の場所や時間が書いてある程度でたいていはテーマすら書き残されていない。例えば常用の手帳に「8月24日理事会」という記述があるが、私はこれからわずかに、この日は松山・日本コリア協会理事会があったらしいということが想像できるだけである。この理事会でどんな議題が議論されたかは、当日の会議のメモを探し出して想起するしかない。

空白

そうやってある程度想起できたとしても、想起できるのはその1日のうちのごく一部分であるから、その日のほとんどはやはり空白のままである。その空白は永久に再生できないであろう。その空白は私にとっていかほどの意味も持っていないだろう。それは空虚な過去であるとしか言いようがないような気がする。つまり、私の過去は存在しないに等しい。

燃え進む

 しかし、それは当然のことなのだろう。つまり、常に存在しなくなりつつあるものこそが時間なのだから。そうすると、時間と言うものはダイナマイトの導火線のようなものなのかもしれない(実際に見たことはないが…)。どんどん進んでいく炎が現在という時であり、導火線の先にある燃える可能性のある部分が未来であり、そして過去は何物でもない、と言うわけだ。

在り続けること

 逆にいうと、在り続けるということは時間がないということだ。「モナリザ」や「考える人」や「金字塔」には時間はないのだ。時は悲しみを癒す。燃え進むものが悲しみを癒すのである。しかし、海底の愛媛丸の船体には大人や子どもの身体があり続けた。だから、時間はなく、だから残されたものは癒されなかった。

「従軍慰安婦」

 「従軍慰安婦」体験者も社会の片隅で「従軍慰安婦」であり続けている。彼女たちにも時間がない。時間のあるものは親の敵を討つためにすら「臥薪」し「嘗胆」しなければならないが、時間のないものの怒りは衰えることを知らない。 

時を生む

 タイワンフウが黄葉を次々に落しながら美しい時間を生み続けている。


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